2015年10月25日主日礼拝
聖書:ルカの福音書1章57節ー80節
説教題:「彼の名はヨハネ」
序) 私たちは前回の講解説教で、マリヤが祝福された理由は主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人であったからで、神様のみことばをどれくらい真実に信じきるかによって素晴らしい信仰になり、祝福される鍵をもらえるようになるということを学びました。私たちにいつも神様が求められる姿勢は、心砕かれて、へりくだることであることも学びました。また、神様のあわれみのゆえに私たちをも忘れずに救いに導いてくださったことも学びました。今日のみことばはルカの福音書1章57節から80節までです。みことばに書かれている神様の御心が何か共に学びたいと思います。
Ⅰ 彼の名はヨハネ
さて月が満ちて、エリサベツは男の子を産みました。近所の人々や親族は、主がエリサベツに大きなあわれみをおかけになったと聞いて、彼女とともに喜びました。この喜びはエリサベツ個人の喜びではなく、メシヤの道を備えるヨハネの誕生でありますので、救いの歴史の中でも重大な意味を持つことであり、すべての信徒の喜びでもあります。さて、八日目に、人々は幼子に割礼するためにやって来て、幼子を父の名にちなんでザカリヤと名付けようとしたが、母は答えて、「いいえ、そうではなくて、ヨハネという名にしなければなりません」と言いました。イスラエルの民は生まれてから八日目に、割礼を受けました。旧約時代の割礼には色々な意味がありました。一つ目は神様の契約に対して従うしるしでありました。二つ目は選ばれたイスラエルの民が異邦人と区別されるしるしでありました。三つ目は神様の契約を永遠に記憶するしるしでありました。四つ目は新約時代の洗礼を予示したしるしでありました。しかし、人々は本来の意味を忘れ、体にだけ割礼を受ける人々が増えるようになりました。申命記30章6節に「あなたの神、主は、あなたの心と、あなたの子孫の心を包む皮を切り捨てて、あなたが心を尽くし、精神を尽くし、あなたの神、主を愛し、それであなたが生きるようにされる。」とあるように、心の割礼が強調されるようになりました。神様が定めた大切な儀式であっても人が心から受け取らないと、ただの宗教的な形だけの儀式にすぎないことになり、その大切な意味を失うことになります。それゆえ、心を尽くし、精神を尽くして主を愛し、それで生きることが最も大事であります。続きをみると、人々は幼子に割礼するためにやって来て、幼子を父の名にちなんでザカリヤと名付けようとしたことが記されています。イスラエルの民は割礼の時にその子に名をつける慣習がありました。アダムが動物に名付けることによって支配権を使うことができたことや、アブラムがアブラハム、ヤコブがイスラエル、サウロがパウロと呼ばれるようになったことからも、イスラエルの民は名前が持つ意味をとても大事にしていました。また、子の名をつける時に近所の人々が参加することやお父さんの名前に従って子の名をつける慣習が昔からありました。ですから、人々がその慣習に従って人々が来て、幼子を父の名にちなんでザカリヤと名付けようとしました。その時、母は答えて、「いいえ、そうではなくて、ヨハネという名にしなければなりません」と言いました。エリサベツは自分の発言が慣習に逆らうことであり、女性の発言が無視される可能性があるにもかかわらず強く拒否しました。そして、「ヨハネという名にしなければなりません」と話しました。彼女は神様の預言を信じて信仰によって行動しました。彼女の発言に周りの人々はびっくりしました。彼らは彼女に、「あなたの親族にはそのような名の人はひとりもいません」と言いました。ヨハネという名は彼らの常識と慣習を超える名前で、ありえないことでした。神様の御心は彼らの常識と慣習に縛られないことでした。そして、彼らは身振りで父親に合図して、幼子に何という名をつけるつもりかと尋ねました。すると、彼は書き板を持って来させて、「彼の名はヨハネ」と書いたので、人々はみな驚きました。ザカリヤは話すことや聞くことができない状態でしたが、周りの人の尋ねに正しく反応しました。人々を驚かせたことに、ザカリヤは話すことや聞くこともできないのにエリサベツと同じ名前である「彼の名はヨハネ」と書いたのです。この夫婦は神様の預言を忠実に信じました。ザカリヤが「彼の名はヨハネ」と書くとたちどころに、彼の口が開け、舌は解け、ものが言えるようになって神をほめたたえました。10ヶ月の沈黙から解放されたザカリヤの唇からは神様への感謝と賛美が溢れました。10ヶ月の沈黙は彼にとってただ辛い経験ではなく、神様との交わりと信仰の成長に繋がる良い期間でした。ザカリヤの賛美を聞いた人々はみな、それを心にとどめて、「いったいこの子は何になるのでしょう」と言いました。主の御手が彼とともにあったからであります。
Ⅱ あわれみの誓い
さて父ザカリヤは、聖霊に満たされて、預言して言いました。これらのすべての出来事は聖霊の働きでした。ザカリヤは「ほめたたえよ。イスラエルの神である主を。主はその民を顧みて、贖いをなし、救いの角を、われらのために、しもべダビデの家に立てられました。」と預言しました。ザカリヤはまず神様は善良なる方であると賛美しました。また、その民を顧みてくださる方であると告白しました。この表現は神様が主権的な働きによってその民を顧みてくださるという意味で、彼らをそのめぐみの中に導いてくださる方であるという意味です。それは神様がその民にめぐみをくださるためにその民を「訪問する」、「尋ねる」という主権的で積極的な働きが強調されています。その主権的で積極的な働きが「贖い」でありました。旧約聖書において「贖い」とは人手に渡った近親者の財産や土地を買い戻すことや身代金を払って奴隷を自由にすること、家畜や人間の初子を神に捧げる代わりに生贄を捧げること、犠牲の代償を捧げることで、罪のつぐないをすることなどの意味がありました。新約聖書において「贖い」とはキリストが私たちの罪のために十字架という身代金を払って罪の奴隷から自由にしてくださったことを意味します。「贖い」という救いの概念は旧約時代から新約時代まで一貫してきました。ザカリヤは続いて救いの角、すなわち救いの力を持っておられるメシヤがしもべダビデの家に立てられると預言しました。この預言は偉大な王であるダビデがしもべになるくらいキリストは先におられた偉大な王であることを示しています。続けてザカリヤは「古くから、その聖なる預言者たちの口を通して、主が話してくださったとおりに。この救いはわれらの敵からの、すべてわれらを憎む者の手からの救いである。主はわれらの父祖たちにあわれみを施し、その聖なる契約を、われらの父アブラハムに誓われた誓いを覚えて、われらの敵の手から救い出し、われらの生涯のすべての日に、きよく、正しく、恐れなく、主の御前に仕えることを許される。」と預言しました。旧約聖書のメシヤ預言は聖書全体を通して語られていることであり、その預言はキリストに焦点が当てられていました。それらは古くから、その聖なる預言者たちの口を通して、主が話してくださったとおりに成就されました。この救いはわれらの敵からの、すべてわれらを憎む者の手からの救い、すなわち、神様の偉大な救いの計画に反対及び妨害するサタンやその勢力からの救いであります。この完全な救いは、神様のあわれみのゆえに聖なる契約を、われらの父アブラハムに誓われた誓いを覚えてくださったことによるのです。神様はその聖なる契約をアブラハム以外にもアダム、ノア、イスラエルの民、ダビデなどと結ばれました。神様が人間と自ら結んだ契約に対して、人間の罪深さと愚かさがあったにもかかわらず、真実に守り、成就してくださいました。その理由はただ一つ、神様の憐れみにありました。それゆえ、私たちが神様の契約を信じる勇気をもらうことができるのです。その救いのゆえに私たちもザカリヤの預言のように、生涯のすべての日に、きよく、正しく、恐れなく、主の御前に仕えることが許されています。
Ⅲ 幼子よ
ザカリヤは続いて「幼子よ。あなたもまた、いと高き方の預言者と呼ばれよう。主の御前に先立って行き、その道を備え、神の民に、罪の赦しによる救いの知識を与えるためである。」とヨハネについて預言しました。ヨハネは「いと高き方」、すなわち「神様の預言者」と呼ばれるようになると預言されました。彼は他の預言者より優れた者で、最も偉大な預言者であります。その理由の一つ目は旧約と新約の時代をつなぐ預言者で、イエス様と同じ時代に生き、その働きを見ながら自分の使命を果たした預言者だったからです。二つ目は旧約の時代には優れた預言者が沢山いましたが、メシヤの道を直接に導き、備えた預言者は彼だけだったからです。イエス様は「いと高き方」の御子であり、ヨハネは「いと高き方」の預言者だと呼ばれました。ヨハネはエリヤの持っていた気質や影響力、またエリヤが神様から頂いた力などを持って働く預言者でした。メシヤが来られる前には預言者エリヤが先に来て主の道を整えるという預言が、ヨハネを通して成就されました。ヨハネの働きは主の御前に先立って行き、その道を備え、神の民に、罪の赦しによる救いの知識を与えることでした。救いは罪の赦しが前提になります。罪のゆえに死ぬべき人間にとって大きな慰めと力は罪の赦しにあります。旧約のいけにえはイエス様の贖いを予示したことであり、神様に捧げられた傷のない完全ないけにえとしてのキリストの犠牲によって完全な赦しと救いが成し遂げられました。人間は神様との親しい霊的な交わりを持つ存在として創られました。しかし、人間の罪のゆえにその関係が壊れてしまいました。それゆえ、神様の主権的な救いの働きの中で、徹底的な悔い改めと罪の赦しが求められるようになりました。ヨハネの主な働きは罪が赦されるための悔い改めに基づくバプテスマを説くことでありました。それが、罪の赦しによる救いの知識を与えることであります。これらの事は神様の深いあわれみによると預言されています。すべてが神様の深いあわれみから始まり、成就された出来事であります。最後にザカリヤは「そのあわれみにより、日の出がいと高き所からわれらを訪れ、暗黒と死の陰にすわる者たちを照らし、われらの足を平和の道に導く。」と預言をしました。「日の出」、すなわち全ての暗闇と死を追い出す義と真理と愛に満たされた世界を到来させるメシヤの預言であります。メシヤの主な働きは「暗黒と死の陰にすわる者たちを照らし、われらの足を平和の道に導くことである」と預言されています。この預言はイザヤ書9章2節の「やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った。」という預言を引用したものであります。これはイスラエルの民に語られた預言でありますが、キリストはユダヤ人であれ、異邦人であれ、それに関係なく、神様から離れ滅びに落ちた悲惨な人生に、真理といのちの光を照らすためにこの世に来られました。その光に照らされ許された者は、平和の道に導かれます。それがこの預言に語られています。ザカリヤは賛美から始まって預言を平和で終わらせました。その後、幼子は成長し、その霊は強くなり、イスラエルの民の前に公に出現する日まで荒野にいました。
終わりに
10ヶ月の沈黙から解放されたザカリヤは彼らの常識と慣習に従わずに、神様の御心に従って幼子の名を「彼の名はヨハネ」であると告白しました。その信仰は妻であるエリサベツも同じでした。神様はその聖なる契約をアブラハム以外にもアダムやノア、イスラエルの民、ダビデなどと結ばれました。神様は人間と自ら結ばれた契約を、人間に罪深さと愚かさがあったにもかかわらず、真実に守り、成就してくださいました。その理由はただ一つ、神様の深い憐れみの誓いがあったからです。そのあわれみのゆえにキリストはユダヤ人であれ、異邦人であれ、それに関係なく神様から離れ滅びに落ちた悲惨な人生を過ごしている私たちに真理といのちの光を照らすため、この世に来られました。その光に照らされ許された私たちは平和の道に導かれています。それゆえ、私たちの生涯のすべての日は、きよく、正しく、恐れなく、主の御前に仕えるために生かされているということを忘れてはいけません。お祈りします。