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2015年10月18日主日礼拝
聖書:ルカの福音書1章39節ー56節
説教題:「主はそのあわれみをいつまでも忘れない」

序) 私たちは前回、ルカの福音書の講解説教で、神様の偉大なご計画が小さな町のひとりの処女であるマリヤを通して成就されるということを学びました。また、イエス様の誕生の預言は神の国の到来であり、完成への幕を開いた偉大な宣言であることも学びました。そして、神様の御心であれば「神にとって不可能なことは一つもありません。」という信仰を持って前に進むべきであることも学びました。今日のみことばはルカの福音書1章39節から56節までです。みことばに書かれている神様の御心が何か共に学びたいと思います。

Ⅰ マリヤとエリサベツ

マリヤは御使いから「あなたは神から恵みを受けたのです。ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」とメシヤ誕生の預言を聞きました。続けて「あなたの親類のエリサベツも、あの年になって男の子を宿しています。不妊の女といわれていた人なのに、今はもう六か月です。神にとって不可能なことは一つもありません。」とエリサベツの妊娠の話も聞きました。それを聞いたマリヤは立って、山地にあるユダの町に急いで行きました。そしてザカリヤの家に行って、エリサベツにあいさつしました。エリサベツがマリヤのあいさつを聞いたとき、子が胎内でおどり、エリサベツは聖霊に満たされました。胎内にある六か月の子がおどることは普通に考えられる出来事であります。しかし、聖書に記されていることは神様の御業を意味します。それは、44節を見ると「ほんとうに、あなたのあいさつの声が私の耳に入ったとき、私の胎内で子どもが喜んでおどりました。」とあり、キリストの道を備えるヨハネが胎内からキリストの訪問を喜び踊ったことを表しているからです。マリヤのあいさつに胎内の子もエリサベツも聖霊に満たされました。エリサベツは大声をあげて言いました。「あなたは女の中の祝福された方。あなたの胎の実も祝福されています。私の主の母が私のところに来られるとは、何ということでしょう。ほんとうに、あなたのあいさつの声が私の耳に入ったとき、私の胎内で子どもが喜んでおどりました。主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」と。エリサベツは山地にあるユダの町に6ヶ月間身を隠していました。マリヤと出会った喜びや胎内の子がおどること、そして聖霊に満たされたことから大声をあげました。さらに、エリサベツはマリヤと出会った瞬間、聖霊に満たされマリヤの妊娠を知ることができました。エリサベツはマリヤに「あなたは女の中の祝福された方。」と誉めました。それはマリヤが優れた存在であるからではなく、彼女の胎内の子が全ての民を救うキリストであるからであります。ですから、カトリック教会のマリヤ崇拝は非聖書的であります。詳しく見てみると、続けてエリサベツはマリヤに「私の主の母が私のところに来られるとは、何ということでしょう。」と言いました。エリサベツはマリヤを「私の主の母」と呼びました。新約聖書の中にマリヤが「神の母」と記されたところは一つもありません。イエス様にある神性を人性の中に入れることはありえないことです。「イエス様は神様です」とは言えますが、「神様はイエス様です」とは言えません。ですから、カトリック教会のマリヤ崇拝は間違った教えなのです。続けてエリサベツはマリヤに「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人は、何と幸いなことでしょう。」と言いました。この節に「マリヤが祝福された人」になった理由が書かれています。それはマリヤが「主によって語られたことは必ず実現する」と信じきった人であるからです。マリヤは素晴らしいめぐみを受けた人でしたが、彼女が素晴らし人物だという意味ではなく、主への信頼と信仰が素晴らしかったという意味です。神様のみことばをどれくらい真実に信じきったかによって素晴らしい信仰になり、祝福される鍵をもらうことができるのです。

Ⅱ 主はこの卑しいはしために

マリヤは答えました。「わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。ほんとうに、これから後、どの時代の人々も、私をしあわせ者と思うでしょう。力ある方が、私に大きなことをしてくださいました。その御名は聖く、そのあわれみは、主を恐れかしこむ者に、代々にわたって及びます。主は、御腕をもって力強いわざをなし、心の思いの高ぶっている者を追い散らし、権力ある者を王位から引き降ろされます。低い者を高く引き上げ、飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせないで追い返されました。主はそのあわれみをいつまでも忘れないで、そのしもべイスラエルをお助けになりました。私たちの父祖たち、アブラハムとその子孫に語られたとおりです。」と。マリヤは「わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます。」と歌いました。マリヤは救い主なる神を喜びたたえました。ローマカトリックではマリヤは妊娠した時から原罪の全ての影響を受けないと主張しました。しかし、マリヤは救い主なる神が必要である罪人であると歌いました。マリヤは神様の救いのめぐみを告白した後、「主はこの卑しいはしために目を留めてくださったからです。」と神様の前に自分がどれくらい惨めな存在であるかを告白しました。この告白は大工の妻であるという低い地位に対する認識と謙遜から出たものでした。マリヤは神様から特別なめぐみを受ける資格も条件も持っていなかったにもかかわらず、メシヤの母だと呼ばれる感激があり、それに対する謙遜な告白をしました。人は特別な祝福や奇跡を経験するとそれに集中してしまい、神様のめぐみを忘れて自分が特別な存在だからその祝福や奇跡をもらっていると勘違いすることがあります。それが人を高慢に導く事にもつながります。イザヤ書57章15節に「いと高くあがめられ、永遠の住まいに住み、その名を聖ととなえられる方が、こう仰せられる。『わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである。』」と書いているように、神様は心砕かれて、へりくだった人とともに住む方であります。また、へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かす方であります。マリヤは神様の前に心砕かれて、へりくだった人でした。神様はそのような彼女を祝福し、メシヤの母として選ばれました。私たちにも神様は心砕かれて、へりくだることを求めておられます。

Ⅲ 力ある方

マリヤは続けて「力ある方が、私に大きなことをしてくださいました。」と歌いました。マリヤは自分の身に起こった奇跡は力ある方、すなわち、神様による御業である事を明確に認識していました。その神様は力ある方であります。それは創世記17章1節に「アブラムが九十九歳になったとき主はアブラムに現れ、こう仰せられた。「わたしは全能の神である。あなたはわたしの前を歩み、全き者であれ。」書かれているように全能の神様を意味します。その御名は聖く、そのあわれみは、主を恐れかしこむ者に、代々にわたって及びます。神様は聖なる方で、全ての被造物に勝る方であります。また、その超越性と倫理は無欠であります。新約聖書で「聖」とは信仰によりキリストと結ばれることによって、キリストの完全な義が転嫁されている信徒の霊的な状態を意味します。また、マリヤは、神様は御腕をもって力強いわざをなし、心の思いの高ぶっている者を追い散らし、権力ある者を王位から引き降ろされる方だと歌いました。「御腕」という言葉は神様の全能なる力を表す旧約的な表現で、神様の圧倒的な権能が強調されています。マリヤは、神様は心の思いの高ぶっている者を追い散らし、権力ある者を王位から引き降ろされる方であると告白し、神様の公平な審判を賛美しました。神様は人々の生活と状況に無関係で天におられる方ではなく、人々の生活に深い関係を持っておられる方であります。人間の全ての不義と歪んだ状況は神様の御手によって正しく導かれると信じる信仰がこの歌に含まれています。また、神様は低い者を高く引き上げ、飢えた者を良いもので満ち足らせ、富む者を何も持たせないで追い返される方であります。社会から疎外された者や軽んじられた者、貧しい者に関心がある方が神様であります。高ぶる者や高慢で富む者を裁く方も神様であります。神様なしには誰も富むことはできません。それは物質的にも霊的にも同じであります。全ての公義の実現はメシヤの到来によって実現されます。神様のあわれみはアブラハムとその子孫に語られたとおりにそのしもべイスラエルをお助けになり、マリヤを通してそれが実現されようとしています。これらの出来事はすべて神様のあわれみであります。アブラハムとイサク、ヤコブに約束された契約が成就された出来事であります。その祝福がそのしもべイスラエルを通して成就されました。「しもべイスラエル」とは血統的には神様の息子なるイスラエルで、社会的には奴隷であるイスラエルを意味します。旧約時代は神様から選ばれたイスラエルの民を通して、異邦人が神様から祝福をいただくことが出来ました。しかし、暗黙の400年の時代を終え、新しい光であるメシヤの到来によって民族と血統を超える霊的なイスラエルの時代が開かれました。それはすでにイザヤ書43章5節「恐れるな。わたしがあなたとともにいるからだ。わたしは東から、あなたの子孫を来させ、西から、あなたを集める。」、マラキ書1章11節「日の出る所から、その沈む所まで、わたしの名は諸国の民の間であがめられ、すべての場所で、わたしの名のために、きよいささげ物がささげられ、香がたかれる。わたしの名が諸国の民の間であがめられているからだ。―万軍の主は仰せられる―」などに預言されたことであります。この歌を歌ったマリヤは三か月ほどエリサベツと暮らして、家に帰りました。

終わりに

マリヤが祝福された理由は「主によって語られたことは必ず実現すると信じきった人」であるからです。神様のみことばをどれくらい真実に信じきったかによって素晴らしい信仰になり、祝福される鍵をもらうことができます。私たちがいつも神様の前で求められる姿勢は、心砕かれて、へりくだることであります。神様は人々の生活と状況に無関係で天におられる方ではなく、人々の生活に深い関係を持っておられる方であります。暗黙の400年の時代を終え、新しい光であるメシヤの到来によって民族と血統を超えた霊的なイスラエルの時代が開かれました。これらの全ての出来事は神様がそのあわれみをいつまでも忘れない方であるからです。そのあわれみのゆえに神様は私たちをも忘れずに救いに導いてくださったのです。私たちはその大きなあわれみとめぐみの時代に生きています。それゆえ、そのあわれみとめぐみに相応しく生きるように主の助けを求めましょう。お祈りします。