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2015年10月11日主日礼拝
聖書:マタイの福音書17章1節ー8節
説教題:「『信じる』ということ」

序)今日のみことばはマタイの福音書17章1節から8節までです。16章でペテロはすばらしい信仰告白をしましたが、本当のイエス様の十字架の道を理解することができませんでした。自分の欲望と自分が作ったイエス像に従うペテロの姿でありました。弟子の道についてイエス様は「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」と教えられました。今日のみことばは、それから六日たってイエス様が、ペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれた時の話です。聖書に書かれている神様の御心が何かともに学びたいと思います。

Ⅰ 御姿が変わるイエス様

イエス様はペテロが信仰告白した六日後、ペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に導いて行かれました。イエス様は弟子たちの目の前で、御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなりました。しかも、モーセとエリヤが現われてイエス様と話し合うというすばらしいことが起こりました。なぜ、イエス様の姿が変わったでしょうか。それは、本当の神様であり、本当の人間であるイエス様のことを表すためでした。3節ではモーセとエリヤが現われてイエス様と話し合っている姿が記されています。ユダヤ人達は旧約聖書のことを「律法と預言者」と言い表しました。モーセは「律法」を与えた人であり、エリヤは「預言者」を代表する人でありました。ですからこの2人は旧約聖書を代表する人物だといえます。この出来事はイエス様が旧約聖書で預言、約束された本当のメシアであることを表すものでした。十字架の道を歩かれる前に神様の御心を表す出来事であります。イエス様は神でありながら父である神様に謙遜に従われました。また、この出来事は苦難の十字架を通して勝利されるイエス様の復活の栄光を予告した出来事であります。イエス様は弟子たちが十字架の道を備えるために自ら教えられたのでした。

Ⅱ 弟子たちの反応

しかし、4節でペテロは「先生。私たちがここにいることは、すばらしいことです。もし、およろしければ、私が、ここに三つの幕屋を造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ」と言いました。ペテロは六日前にイエス様から教えられた十字架の話をすぐに忘れていました。イエス様は十字架につけられ、苦しみを受けるためにエルサレムに行かなければならないので、彼らのために天の奥義まで示されました。それにもかかわらず、ペテロは、形は神様のためだと言いながら、自分のこと、人間のことしか考えられませんでした。5節を見るとペテロがまだ話している間に、光り輝く雲がその人々を包み、そして、雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。」という声がしました。「彼の言うことを聞きなさい」と言うことは山上で幕屋を造って栄光の中で住むことではありません。その反対の事であり、山を降り十字架につけられ、苦しみを受けるためにエルサレムに行くことでした。人は宗教を自分の役に立つことのためや、この世から逃げる場として利用する傾向があります。宗教から自分の利益を求めることは「信じれば病気が治ります」とか、「信じれば幸せになります」という教えだけに関心を向けることです。もちろん、神様の御心であれば病気が治ることは起こりますが、信じたから治るわけではないし、苦しみが去らないことは多いです。あるいは、世から逃げた生活だけを求めることもあるでしょう。聖書は「信じれば治る」ではなくて「信じれば救われる」と言っています。また、「世から離れて教会の働きだけをしなさい」ではなくて、弟子たちに表わされた事は、「イエス様と共に行けば、危険になります。けれどもエルサレムに行かなければなりません」ということでした。聖書は人間が、幻の中に留まるのではなく、現実に直面し、その現実から逃げないように教えています。誰でも十字架の道など歩きたくないと思っています。しかし、十字架を負って初めて知る人生の豊かさがあります。十字架の苦しみ、悩みの中で神様に留まるのです。教会に来て、心が慰められ、清められたということだけに留まる人は、神様と深く出会っていないのです。私たちの信仰が現実の生活の場で生かされていく時、神様との出会いも深くなります。礼拝は日曜日から始まり、土曜日まで続きます。パウロは言いました。「兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」と。日曜日に教会に来て力をいただき、日常の現実に戻って、十字架を再び負って歩いていくことが私たちの人生の生き方であります。その生き方は簡単なことではありません。しかし、不可能なことでもありません。そのような信仰の道をイエス様が初めに歩かれ、歴史の多くの信仰の先輩達も歩きました。

Ⅲ ただイエス様だけ

8節を見ると「それで、彼らが目を上げて見ると、だれもいなくて、ただイエスおひとりだけであった。」と書かれています。素晴らしい奇跡が弟子たちの目の前に起こりましたが、それが過ぎ去るとイエス様だけになりました。真の本質はイエス様だけにありました。私たちは弟子たちのように目の前に起きている事に集中するのではなく、目を上げてただイエス様だけを見上げる必要があります。自分の姿や現実、問題だけを見る鏡から離れ、神様への窓が必要であります。ローマ人への手紙12:2では「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」と書かれています。その後、弟子たちは死ぬまでイエス様に従いました。実際にこの山で栄光のイエス様を見た、ヤコブはヘロデ・アグリッパの弾圧によって殉教しました。ペテロはネロの迫害によって、殉教しました。ヨハネはドミティアヌスの時代にパトモス島に島流しにされました。彼らには明らかな復活の信仰がありました。ただイエス様の復活を信じただけではなく、彼ら自身も終末に復活するという明確な信仰を持っていました。山上での経験と復活の信仰が彼らを強い信仰に導いたのです。

終わりに

ヨハネの福音書11:25でイエス様は「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。」と教えられました。私たちは死んでも復活する約束といのちを与えられている者です。世界福音同盟(WEF)の統計資料では今世紀、全ての戦争で死んだ人の数よりも、信仰に関連して死んだ人の数の方が多いという結果が出ています。20世紀の殉教者は1億人にのぼっています。私たちは今も信仰のために命をかけている人々のために祈らなければなりません。それと同時に、私たちもしっかりした復活の信仰、十字架の信仰を持たなければなりません。お祈りします。