ようこそ。香芝めぐみ教会へ。

主日礼拝
聖書:ルカの福音書3章9節ー20節
説教題:「私たちはどうすればよいのでしょう」

序)私たちは前回の講解説教で、ヨハネの働きを通して真実な悔い改めのない人は厳しく叱られ裁きを受けることを学びました。しかし、真実な悔い改めをする者はキリストよって霊的なアブラハムの子孫になり、約束による相続人になる約束をいただくということを学びました。今日のみことばはルカの福音書3章9節から20節までです。みことばに書かれている神様の御心が何か共に学びたいと思います。

Ⅰ ヨハネの説教

今日もヨハネの説教は続きます。ヨハネは9節で「斧もすでに木の根元に置かれています。だから、良い実を結ばない木は、みな切り倒されて、火に投げ込まれます。」と説教しました。ヨハネは実を結ばない木は神様の御心に従って切り倒されるというメッセージと斧もすでに木の根元に置かれているというメッセージをしました。良い実を結ばない木の話はルカの福音書13章6節から9節に「イエスはこのようなたとえを話された。『ある人が、ぶどう園にいちじくの木を植えておいた。実を取りに来たが、何も見つからなかった。そこで、ぶどう園の番人に言った。『見なさい。三年もの間、やって来ては、このいちじくの実のなるのを待っているのに、なっていたためしがない。これを切り倒してしまいなさい。何のために土地をふさいでいるのですか。』番人は答えて言った。『ご主人。どうか、ことし一年そのままにしてやってください。木の回りを掘って、肥やしをやってみますから。もしそれで来年、実を結べばよし、それでもだめなら、切り倒してください。』』と書いているイエス様のたとえの話につながります。また、斧もすでに木の根元に置かれていることは迫っている裁きのことで、ヨハネが働いた時代はAD30年から32年の間でしたがヨハネの警告の預言から40年後であるAD70年にエルサレムは滅びました。パリサイ人やサドカイ人たちはヨハネの警告を軽視し、悔い改めるチャンスを逃しました。彼らはいつまでも自分たちの時代が一気に変わることを想像もしませんでした。しかし、いつまでも続くと思った時代が突然、エルサレムは預言された通りに滅びました。聖書の中には今日も続いている警告があります。今日の人々も昔の人々のようにその警告を軽んじて無視していることが多いです。気をつけなければならないことであります。しかし、10節を見ると群集の中でヨハネに「それでは、私たちはどうすればよいのでしょう。」と尋ねる人がいました。彼らは神様の御心を求め、救いを得ようとしている人でした。神様の御心とみことばが語られると二つの反応が生じます。一つ目はそれを軽率に見て無視する反応と二つ目はそれを謙遜に受け取る反応であります。人間の罪深さは神様の御心とみことばに従うことよりそれを軽率に見て無視します。それが罪の中で生まれた人間の自然な反応であります。しかし、その結果は厳しい裁きが待っています。ですから、私たちは神様の御心とみことばに謙遜に反応できるように祈らなければなりません。

Ⅱ 私たちはどうすればよいのでしょう。

ヨハネは答えて「下着を二枚持っている者は、一つも持たない者にわけなさい。食べ物を持っている者も、そうしなさい。」と言いました。ヨハネは真実な悔い改めは愛と正義を実践する具体的な行動が必要であると教えました。パレスチナ地方は温度差が激しいので寒さから体を守るために服を二枚持って歩くことが多くありました。ですから、ヨハネは下着を二枚持っている者は貧しい人々に愛の具体的な実践としてわけてあげるように教えました。食べ物を持っている者にも同じような教えでありました。レビ記19章18節に「復讐してはならない。あなたの国の人々を恨んではならない。あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい。わたしは主である。」と書いているように旧約時代から隣人に対する愛はとても重要な戒めでした。富が自分の家族だけのために、あるいは稼ぐことだけに目的を置いてはいけません。第一テモテへの手紙6章18節で「また、人の益を計り、良い行いに富み、惜しまずに施し、喜んで分け与えるように。」と書いているように必要な分を自分に正しく使い、それ以外のものは貧しい人々に分け与えることにあって富の尊い価値が分かるようになります。取税人たちも、バプテスマを受けに出て来て、「先生。私たちはどうすればよいのでしょう。」と言いました。取税人たちはユダヤ人たちの憎しみの対象でした。彼らはローマの政府の税金を徴収する権限を委託された人で、自分の同族からお金を奪いました。
彼らは自分たちの生活のためにローマの政府が要求する金額より多くの金額を徴収したり、直接に税金を徴収する下級税人を雇いたりしました。彼らは仕事のためにユダヤ人の敵であったローマの人々とよく出会いました。それで、彼らはユダヤ人から「汚れた人」だと扱われ嫌われました。しかし、彼らはみことばに謙遜に反応しました。人々から嫌われ無視された彼でしたが、イエス様は彼らの友達になってくださいました。ヨハネも彼らに関心がありました。ヨハネは彼らの職業を責めることより「決められたもの以上には、何も取り立ててはいけません。」と可能な解決方法を教えました。税人たちに彼らの職業をやめさせることをせず、自分たちの力を乱用することや自分の利益のために過度な税金の徴収をしないで、公平で正しくしなさいと教えました。また、ヨハネに尋ねた兵士たちにも「だれからも、力ずくで金をゆすったり、無実の者を責めたりしてはいけません。自分の給料で満足しなさい。」と教えました。この兵士たちはローマの兵士ではなく、ユダヤの兵士たちでありました。当時の兵士たちは給料が安いため生活が厳しいのでした。それで、自分の力を利用して民からお金を奪い自分のものにしました。ヨハネは彼らにも公平で正しい悔い改めの実を求めました。いかなる職業であっても善のために働くべきであり、悪のために働くべきではないと教えました。それぞれの場所で「真の愛を表す」ために生活の現場で結ぶ悔い改めの実があると教えました。

Ⅲ もしかして

民衆は救い主を待ち望んでおり、みな心の中で、ヨハネについて、もしかしてこの方がキリストではあるまいか、と考えました。当時、ユダヤ人の中ではメシヤの到来に対する期待が高まっていました。ヨハネはユダ部族でも無いし、奇跡を起こすこともできませんでした。しかし、彼の説教には力が溢れたので人々はもしかしてこの方がキリストではあるまいか、と考えました。人々の反応に対してヨハネは黙ったり、曖昧な態度を取ることではなく明確な態度で反応をしました。神様のすごい働きに用いられることにより有名になったヨハネは堕落せずに自分の使命に忠実でした。ヨハネはみなに「私は水であなたがたにバプテスマを授けています。しかし、私よりもさらに力ある方がおいでになります。私などは、その方のくつのひもを解く値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。また手に箕を持って脱穀場をことごとくきよめ、麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」と答えて言いました。ヨハネは、自分は水であなたがたにバプテスマを授けているが、聖霊と火とのバプテスマをお授けになる方がおいでになることを話し、自分の働きとメシヤの働きを比較することによってメシヤの卓越した働きを説明しました。ヨハネは「その方のくつのひもを解く値うちもありません。」と謙遜に告白しました。当時の人々ははだし、あるいはサンダルを履きました。室内に入る時はそのサンダルを脱ぎました。その時、奴隷たちは主人のくつのひもを解いたり、結んだりしました。必要でない場合はそのくつを家に持ち帰りました。このように主人や主人のお客さんのくつのひもを解いたり、結んだりし、綺麗にする仕事は低い奴隷の働きでした。ヨハネのような素晴らしい神様の働き人が自分はその方のくつのひもを解く値うちも無いと告白することは一体イエス様はどんなに素晴らしい方であるかを証ししていることであります。また、ヨハネは「また手に箕を持って脱穀場をことごとくきよめ、麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」と厳しく警告しました。ユダヤ人達は神様の裁きは自分達とは関係なく異邦人に対する裁きだと思い込んでいました。農夫が手で箕を使うと重いものは箕に残り、軽いものは下に落ちるようになります。それと同じようにイエス様は信者と不信者を区別します。第二ペテロの手紙3章7節で「しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。」と警告されています。ヨハネは、そのほかにも多くのことを教えて、民衆に福音を知らせました。ヨハネの厳しい警告と説教でしたが、それと同時に良き知らせでありました。なぜならば、ヨハネの説教にはその裁きから逃れる悔い改めの道を教えたからであります。さて国主ヘロデは、その兄弟の妻ヘロデヤのことについて、また、自分の行った悪事のすべてを、ヨハネに責められたので、ヨハネを牢に閉じ込め、すべての悪事にもう一つこの悪事を加えました。

終わりに

ヨハネの説教でも見られるように神様の御心とみことばが語られると二つの反応が生じます。一つ目はそれを軽率に見て無視する反応と二つ目はそれを謙遜に受け取る反応であります。私たちは神様の御心とみことばに謙遜に反応できるように祈らなければなりません。そして、「私たちはどうすればよいのでしょう。」と告白しなければなりません。それに従って私達も悔い改めに相応しい実を生活の現場で具体的に実践する必要があります。最後に第二ペテロの手紙3章8節から13節で読みたいと思います。「しかし、愛する人たち。あなたがたは、この一事を見落としてはいけません。すなわち、主の御前では、一日は千年のようであり、千年は一日のようです。主は、ある人たちがおそいと思っているように、その約束のことを遅らせておられるのではありません。かえって、あなたがたに対して忍耐深くあられるのであって、ひとりでも滅びることを望まず、すべての人が悔い改めに進むことを望んでおられるのです。しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。
そのようにして、神の日の来るのを待ち望み、その日の来るのを早めなければなりません。その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。」お祈りします。