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主日礼拝
説教題:「キリスト・イエスの愛の心で
聖書:ピリピ人への手紙1:8

序)私たちのうちに良き働きを始めた方はイエス・キリストであります。その働きは休むことなく世の終わりまで続けられる神様の御業であります。今日もイエス様による良き御業が私たちのうちに働いています。その豊かな神様のめぐみを期待し、共に御言葉の時間を持ちたいと思います。お祈りします。

Ⅰ ピリピの教会への挨拶

パウロがピリピの教会に送った手紙であるピリピ人への手紙は、パウロの挨拶から始まりました。そしてこの手紙では、ピリピの教会に対するパウロの愛が十分に表現されていました。パウロは6節で「あなたがたのうちに良い働きを始められた方は、キリスト・イエスの日が来るまでにそれを完成させてくださることを私は堅く信じているのです。」と7節では「私があなたがたすべてについてこのように考えるのは正しいのです。」と言いました。ピリピの教会に対してパウロは、深い関心と愛を持っている状態でありました。それはとても深い心を意味し、心の奥から現れる愛を表していました。このパウロとピリピの教会の深い絆はパウロが投獄された時、さらに深まりました。ピリピの教会の人々は危険の中でも、何度も献金や人を送ってパウロの宣教の働きを助けました。ピリピの教会はただ恵みを受けることに留まらず、自ら捧げる教会、すなわち感謝を持ってささげ、主に喜んで使える教会でした。ピリピの教会は宣教のために大きな犠牲を支払いました。彼らは途中でやめることではなく、パウロの宣教のために最後まで祈りと献金で助けた教会でありました。他の教会は途中でやめたりしましたが、ピリピの教会は喜んで犠牲を払い、最後まで続けました。ですから、パウロは「私が投獄されているときも、法廷で福音を弁明し立証しているときも、私とともに恵みにあずかった人々」だと語りました。実際に捕まえられ、投獄され、法廷で福音を弁明し、立証したのはパウロ自身でした。ピリピの教会の人々は遠く離れて、その場所にはいませんでした。しかし、パウロは私とともに恵みにあずかった人々であると言いました。それは、ピリピの教会の人々が、献金と交わりを通して、パウロの宣教の働きを最後まで忠実に助けたからです。また、彼らがキリストに対する信仰を捨てることなく、忠実に特権を持ってパウロと共に苦難に参加したからです。パウロはそのようなピリピの教会の人々の働きを、「心に覚えています」と言いました。パウロの苦難はただ個人の苦難ではなく、キリストのための苦難であり、教会のための苦難でもありました。ピリピの教会の人々が祈りと献金と交わりを通してパウロの宣教の働きと苦難を共に分ち合ったことは、教会のためであり、キリストのためでした。宣教の働きは一人で成り立つことではなく、多くの教会の人々の祈りと献金と交わりによって成り立つものであります。私たちが宣教のために捧げる献金と交わりは、宣教の働きを助けることだけではなく、その働きに共に働くことをも意味します。また、その宣教の働きによる苦難も共に分ち合うことになります。喜びも悲しみも共に分かち合うことによって、共に働くことになります。それが、ともに恵みにあずかったものになることであり、そこにはすばらしい特権があります。

Ⅱ キリスト・イエスの愛の心をもって

パウロは8節で「キリスト・イエスの愛の心をもって、どんなにあなたがたすべてを慕っているか、そのあかしをしてくださるのは神です。」と言いました。ピリピの教会の人々に対するパウロの愛の根拠がどこにあるのかが書かれています。それは、キリスト・イエスの愛の心であります。その愛によって愛していると言っています。ピリピの教会の人々に対するパウロの熱い愛は、自分の愛ではなく、キリスト・イエスの愛であると言いました。パウロが語った「キリスト・イエスの愛」とはどんな愛でしょうか。もう少し共に学びたいと思います。「愛の心」と訳されている言葉は、ギリシャ語ではσπλαγχνοις(spllangknois)という言葉であります。それは動物の内臓、特に心臓、肝、肺、腎臓、はらわた等を指す言葉であります。それはユダヤ人が深い憐れみの心と感情を表す時、使った言葉であります。福音書ではイエス様の憐れみ深い心を表現する時、特別にこの単語が使われました。私たちがこの言葉を深く理解するためには、ユダヤ人のこの単語に対する理解と使い方を知る必要があります。ユダヤ人は本当に深い悲しみと痛みは、はらわたから出ることだと理解しました。ですから、この言葉は深い意味を持っている言葉であります。この言葉は単純に、かわいそうに思う時に使った言葉ではありません。むしろ体に痛みを感じるぐらい深い憐れみの感情を表す時に使いました。ですから、イエス様が自分の民に涙を流したことは、痛みを感じるぐらい深い憐れみの感情を表すことであります。それがキリスト・イエスの愛の心であります。イエス様ご自身が痛みを感じるぐらい深い憐れみを持っておられたから命をかけてご自分の民を救うために十字架で死んでくださいました。その愛で、パウロはピリピの教会の人々を愛していると言いました。それこそ命を掛けた愛であります。その愛は本物だと証明するのはパウロ自身ではなく、神様だとパウロは言いました。そこまでパウロが言えるのは、パウロ自身の力ではなく、パウロの中で働いておられる聖霊の力によるものであり、パウロが持っている愛の中心がイエス・キリストであるからであります。

適用)

キリスト・イエスの愛の心は直訳すると「キリスト・イエスのはらわた」であります。それは、神であり人であるイエス様が涙を流し、はらわたに痛みを感じるぐらい深い憐れみの感情で、自分の民を最後まで愛されたことを現す言葉であります。それが十字架のとてつもない苦しみと痛みさえ、耐える力になりました。それがキリスト・イエスの愛の心であります。その愛でキリストが私たちを愛しておられます。皆さんはイエス様が皆さんのために、はらわたに痛みを感じるぐらい深い憐れみを持っておられることを考えたことがありますか。それは信じられないぐらい強烈な愛で、深いものであります。イエス様は燃える熱愛で私たちを愛しておられる方であります。それはイエス様が私たちを思う時、はらわたに痛みを感じるぐらい深い憐れみの感情が起こることを意味します。イエス様が私たちを愛するその愛のゆえに、御自身のはらわたに痛みを感じることがあることは信じられないことであります。信じられないことですが、それは事実であり、それが私たちのための福音であります。その強烈な愛があるから、私たちのために体全体が崩れるような痛みと水と血が流れ出る十字架の苦しみを受けるために、ゴルゴタの丘を上られました。イエス様は一度も経験されたことがない父から離れる孤独と死への戦いと苦しみ、人間としての最悪の恥、御自身の民から裏切られ、呪われる侮辱を受けられるまで十字架の道を黙々と登られました。

それがキリスト・イエスの愛の心であります。

ですから、神様は私たちもパウロのように、キリスト・イエスの愛の心を持って生きることを望んでおられます。私たちもキリスト・イエスの愛の心を持って、人々を愛し、使えることを望んでおられます。主にある兄弟姉妹たちの間が表面的な関係に留まらず、お互いに思い合い、自分のはらわたに痛みを感じるぐらい深い憐れみを持つまで愛し合うのを主は望んでおられます。同じ教会の人だから、同じ国の人だから、私と親しいから親切にしよう、仲良くしようということでは不十分であります。神を愛し、人を愛することはそういうレベルの話ではありません。私たちが関係を持っている人々をキリスト・イエスの愛の心を持って愛することであります。それが、キリスト・イエスの愛をいただいた人の生き方であります。では、どうやってキリスト・イエスの愛の心を持って生きることができるでしょうか。まずは十字架のイエス様の愛の深さを理解することが大切であります。人は自分が愛された記憶によって、他の人を愛することが出来るようになります。自分が愛された記憶がない人は、他の人をまともに愛することは出来ません。ですから、十字架のイエス様を覚え、自分がどれくらい惨めな者であるにもかかわらず、愛され許された事を覚えることが大事であります。その許された恵みとイエス様の愛が自分の心に満たされると、自然にキリストの愛によって他の人を愛するようになります。その許された恵みとイエス様の愛が自分の中に満たされないと、他の人をまともに愛することはできません。それは自分の力で何とかしようとしていることで、聖霊の実を結ぶことはできません。私たちが考える愛とイエス様が考える愛とは違うものだからであります。私たちはいつまでも自己中心的であるからです。ですから、キリストの愛のゆえに本当の愛で自分も他の人も愛することができるようになります。自分の力と方法ではなく、イエス様の力と方法に習うことで可能になります。イエス様の情け深い愛を理解することにより、自分も救われ、他の人も救われるからです。自分の力と方法ではいくら良いことをしても、熱心に形だけの教会の奉仕をしても、キリスト・イエスの愛の心で行われたと言うことはできません。また、それらの行いの証人は神様ですと言うこともできません。しかし、小さなことでも、よく見えないことでもキリスト・イエスの愛の心で行うことは、神様が証人になってくださいます。ですから、日々謙遜にイエス・キリストの愛の心を教えてくださいと祈りながら、イエス様に従い、ついて行くことが大切であります。昔はよく頑張って信じたとか、あるいはこれからそうするということではなく、今、そのように生きることを決心することが大事であります。すなわち、キリストが自分の生き方の本当の主人になることを認めることであります。自分のすべてのもの、時間、健康、生命、お金、夢、仕事、家族、子供等をイエス様に捧げ、委ねることによって、内在するイエス様が完全に支配される状態になり、キリスト・イエスの愛の心によって生きることが出来るようになります。それは私たちがイエス様を私の主、私の神と告白することであり、その告白が生活に生かされることを意味します。私たちの告白が口だけではなく、本当の告白になると自然にキリストの愛で生きるようになります。お祈りします。