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2015年10月4日主日礼拝
聖書:ルカの福音書1章26節ー38節
説教題「神にとって不可能なことは一つもありません」

序) 私たちは前回のみことばでザカリヤ夫婦の男子としてヨハネが生まれることを天使ガブリエルによって予告される箇所を読みました。そこから、神様は信じる者の祈りを聞かれ、御手の中で、神様の時に、神様の方法で答えてくださる真実なお方であることを学びました。
今日のみことばはルカの福音書1章26節から38節までです。みことばに書かれている神様の御心が何か共に学びたいと思います。

Ⅰ ガリラヤのナザレ

それから時は流れ、六か月目に、御使いガブリエルが、神様から遣わされてガリラヤのナザレという町のひとりの処女のところに来ました。この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリヤといいました。ルカは他の福音書とは違って、イエス様の誕生と幼年時代を紹介する前に、ヨハネの誕生と幼年時代を紹介する構造で話を進めています。これからはイエス様の誕生の話が始まります。
御使いガブリエルが、神様から遣わされたところはガリラヤのナザレという小さな町でした。ナザレという町はイスラエル北部地区にあり、地中海岸のハイファの東南東約30km、低地ガリラヤの南端、エスドラエロンの谷に面する丘陵上に位置するところでした。この町はイエス様が生涯のほとんどの時間を過ごされた町でした。ヨハネの福音書1章26節にナタナエルが「ナザレから何の良いものが出るだろう。」と言ったように小さくて無名な町でした。当時の大きな町であり、有名なエルサレムではなく、小さくて無名なガリラヤのナザレという町に御使いガブリエルが神様から遣わされました。
神様の御心は、有名で人が沢山集まっているエルサレムではなく、小さなガリラヤのナザレという町にありました。御使いガブリエルの使命はガリラヤのナザレという町のひとりの処女、すなわちダビデの家系のヨセフという人のいいなずけであるマリヤに出会うことでした。神様の偉大なご計画が小さな町のひとりの処女であるマリヤを通して成就される預言を伝えるためでした。普通に考えると、メシヤが生まれるなら一番大きくて中心的な場所であるエルサレムに生まれるはずでした。また、宮殿や高い地位のある人の子孫に生まれるのがメシヤには相応しい環境だったと思えます。しかし、神様は人の考えをはるかに超えたお方であります。神様の関心は環境や地位、地域より人にありました。
その人はヨセフという人のいいなずけであるマリヤでした。ユダヤ人の風習によると結婚する1年前に婚約をしました。その期間は純潔を守らなければならない期間でした。もし、その期間に純潔を守らなければ死刑になるぐらい厳しいものでした。婚約した相手であっても結婚前の性行為は許されませんでした。また、その期間に新郎が死ねば新婦はやもめになりました。ですから、マリヤが処女であることは大事なことでありました。
御使いは、入って来ると、マリヤに言いました。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます。」と。御使いはザカリヤの時とは違って、マリヤには平安と主の臨在を述べて挨拶をしました。そして、その恵まれた状態が今も続いていると挨拶で述べています。しかし、マリヤはこのことばに、ひどくとまどって、これはいったい何のあいさつかと考えました。マリヤは驚くと同時に今起こっていることに対する神様の御心は何かと考えました。マリヤはザカリヤとは違って、突然起こったことに対して不信仰にならずに神様の御心が何かを考えました。私たちの人生にもいろいろな出来事が突然に現れる場合があります。その時は驚きますが、不信仰にならないで、そこから神様の御心が何かを考える事が大事であります。

Ⅱ その名をイエスに

マリヤはザカリヤとは違って、御使いの挨拶を聞いた後に驚き怖がりました。すると御使いが言いました。「こわがることはない。マリヤ。あなたは神から恵みを受けたのです。ご覧なさい。あなたはみごもって、男の子を産みます。名をイエスとつけなさい。その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」と。
御使いはマリヤに男の子を産むことと、生まれる子の名をイエスと名付けるように教えました。イエスという名前はキリストの人性をよく表わしていることばで、マタイの福音書1章21節に「この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」とその意味が記されています。御使いはマリヤを通して生まれる子に対して預言をしました。御使いは「その子はすぐれた者となり」と預言しました。それは15節でヨハネに関して話したことと同じように見えますが、イエス様に関して話をする時には敬意の意味をもったことばを使って語りました。
また、御使いは「いと高き方の子と呼ばれます」と預言しました。それはイエス様の神的な起源を表すことばでした。「いと高き方」とは神様を表すことばであります。このことばは神様の超越性を表わしていて、新約聖書では9回使われていますが、ルカの福音書では7回使われています。
続いて、御使いは「神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。」と預言しました。ルカの福音書3章31節のイエス様の系図ではダビデの子であると記されています。それはイザヤ9章7節に「その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。」と預言されたことが成就されたのです。イエス様は既に預言された通りダビデの家系に生まれ、「ダビデの王位」に表された神様の御心は成就されました。
御使いは「彼はとこしえにヤコブの家を治め、その国は終わることがありません。」と預言しました。イエス様はとこしえにヤコブの家を治めるお方であります。それは特定の時間に縛られることではなく、永遠性を保っているヤコブの家、すなわち霊的なイスラエルを治めることを意味します。霊的なイスラエルとはローマ人への手紙10書10節から13節に「人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。聖書はこう言っています。『彼に信頼する者は、失望させられることがない。』ユダヤ人とギリシヤ人との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。『主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる』のです。」と書いてあるように、キリストを王として受け入れたすべての信じる者を意味します。続いて「その国は終わることがありません」と預言されました。それはダビデ王に約束された神様の契約がキリストによって成就されることで、メシヤとして神の国の永遠の統治者になることを意味します。イエス様はこの世の国の王として来られたのではなく、永遠に止まらない、終わりがない神の国の王として来られました。キリストの王国はこの世に属するものではなく、キリストの公義によって治められる義と平安と喜びに溢れる神の国であります。
神の国は四つの概念で理解する必要があります。一つ目は神様の王権、統治権及びその民の心の中で働く主権の意味であります。二つ目は完全な救い、すなわち、私たちの心の中で、神様を王として認め、その御心に従う者がもらうすべての霊的で、物質的な祝福の意味であります。三つ目は教会、すなわち神様を王として従う人々の集まりの意味であります。四つ目はすべてが栄光に満ちた新しい天と地であります。それは神様の救いの計画の最終的働きを通して完成される国を意味します。その国の王としてイエス様がこの地にこられると預言されました。

Ⅲ マリヤの信仰

御使いから偉大な預言を聞いたマリヤは御使いに言いました。「どうしてそのようなことになりえましょう。私はまだ男の人を知りませんのに。」と。マリヤが話した「まだ男の人を知りません」とは以前も今も自分が処女であることを意味します。それと同時にザカリヤとは違って、疑う心でしるしを求めるのではなく、成就される方法を質問しています。マリヤは御使いの話に驚きましたが、すぐに神様の御心に従う心で反応しました。それはマリヤが神様は全能であると信じていたからです。
御使いは答えて言いました。「聖霊があなたの上に臨み、いと高き方の力があなたをおおいます。それゆえ、生まれる者は、聖なる者、神の子と呼ばれます。ご覧なさい。あなたの親類のエリサベツも、あの年になって男の子を宿しています。不妊の女といわれていた人なのに、今はもう六か月です。神にとって不可能なことは一つもありません。」と。
ユダヤ人は子供が生まれるためにはお父さん、お母さん、そして神様の霊が必要であると考えていました。しかし、イエス様は聖霊の働きによって処女マリヤの体から生まれる唯一無二の奇跡であります。イエス様はいと高き方の力、すなわち王的力と預言者的力を超えた全能なる神様の特別な力によって生まれることが記されています。その力は生まれる時からその生涯を通して表されていました。イエス様は聖なる者、神の子と呼ばれると預言されました。その預言はイエス様ご自身によって語られたのではなく、バプテスマを受ける時に天からの声で、ペテロの信仰告白の時に、悪霊の叫びによって、一人の百人隊長の告白によって語られました。
御使いはマリヤの親類であるエリサベツも、あの年になって男の子を宿しています。不妊の女といわれていた人なのに、今はもう六か月であると話して預言の確かさを伝えました。そして、何より大事なことばは最後にありました。それは「神にとって不可能なことは一つもありません」ということばでした。エリサベツもマリヤも不可能な現実の問題をはるかに超える神様の奇跡に直面しています。
すでに預言されたことに対し、彼女たちに求められたことは信仰でした。マリヤは言いました。「ほんとうに、私は主のはしためです。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」こうして御使いは彼女から去って行きました。マリヤは、「私は主のはしためです」と告白しました。マリヤは自分が神様の前にどのような者であるべきであるかを明確に認識していました。神様の奴隷であると答えました。マリヤは自分が妊娠したことが人々に知られることによって生じるあらゆる非難と迫害を受ける覚悟をしました。すべてを神様に委ねる謙遜な姿であります。マリヤは「どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように。」と答えました。それは簡単に答えることができない慎重な告白であります。なぜならば、処女が妊娠をしたことはとてつもない大きな問題であったからです。ヨセフとの婚約が破棄されることと同時に、汚れた女であると世間の人々から厳しい非難を受けることになり、場合によっては石で殺されるという命の危険まであったからです。それにもかかわらず、マリヤは信仰によって答えました。マリヤにはこの事を始めた方が神様であるから、全てのことを神様が導いてくださると信じる信仰がありました。彼女がそのような信仰を持つ事ができたのは「神にとって不可能なことは一つもありません。」という御使いが伝えたみことばが心の中に生きていたからです。

終わりに

御使いガブリエルが、神様から遣わされてガリラヤのナザレという町のひとりの処女のところに来ました。この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリヤといいました。神様の偉大なご計画が小さな町のひとりの処女であるマリヤを通して成就されるということでした。神様は人の考えをはるかに超えたお方で、神様の関心は環境や地位、地域より人にありました。イエス様は既に預言された通りダビデの家系に生まれ、ダビデの王位に表される神様の御心が成就されました。イエス様の誕生の預言は神の国の到来であり、完成への幕を開いた偉大な宣言でした。イエス様が聖霊の働きによって処女マリヤの体から生まれる事は唯一無二の奇跡であります。それをマリヤは信仰によって受け取りました。それは名目的な信仰ではなく、しっかりしたみことばによる信仰でした。
私たちも状況や環境を考えると不可能だと思われる現実の問題が沢山あります。しかし、神様の御心であれば「神にとって不可能なことは一つもありません。」という信仰を持って前に進むべきです。なぜならば、その事を始めた方は神様であり、それを完成する方も神様であるからです。お祈りします。