2015年9月20日主日礼拝
聖書:ルカの福音書1章11節ー25節
説教題「主の時」
序) 私たちは先週のみことばでザカリヤとエリサベツの神様の御前に生きる信仰について学びました。また、400年間の中間時代という暗闇の歴史から、新しい希望の光の幕を開く偉大な歴史が始まろうとしていることも学びました。今日のみことばはルカの福音書1章11節から25節までです。みことばに書かれている神様の御心が何か共に学びたいと思います。
Ⅰ 主の使い
ザカリヤは、自分の組が当番で、神様の御前に祭司の務めをしていましたが、祭司職の習慣によって、くじを引いたところ、主の神殿に入って香をたくことになりました。彼が香をたく間、大勢の民はみな、外で祈りました。彼が聖所に入り、香をたく時に、突然、主の使いが香壇の右に現れました。聖所に入ると左にパンの机があり、右に燭台がありました。そして、その中央に香壇がありました。その奥には幕で区切られて、契約の箱などが置かれている至聖所がありました。主の使いは香壇とパンの机の間に現れました。「主の使い」と翻訳されたギリシャ語「Άγγελος」は「天使」、「遣わされた者」にも翻訳できます。この単語はルカの福音書ではよく出てくる単語でもあります。ルカが記録した使徒の働きにもよく使われています。主の使いがザカリヤに現れた出来事は新たな歴史の始まりであり、神様がメシヤをこの世に送ってくださる約束の具体的な始まりでもあります。突然、現れた主の使いと出会ったザカリヤは不安を覚え、恐怖に襲われました。それは主の使いと出会った多くの人々の共通の反応でした。御使いは彼に言いました。「こわがることはない。ザカリヤ。あなたの願いが聞かれたのです。あなたの妻エリサベツは男の子を産みます。名をヨハネとつけなさい。その子はあなたにとって喜びとなり楽しみとなり、多くの人もその誕生を喜びます。彼は主の御前にすぐれた者となるからです。彼は、ぶどう酒も強い酒も飲まず、まだ母の胎内にあるときから聖霊にみたされ、そしてイスラエルの多くの子らを、彼らの神である主に立ち返らせます。彼こそ、エリヤの霊と力で主の前ぶれをし、父たちの心を子どもたちに向けさせ、逆らう者を義人の心に立ち戻らせ、こうして、整えられた民を主のために用意するのです。」と。突然起こった出来事に不安になったザカリヤは、自分が神様の御前に相応しい者ではないので、死の恐怖に襲われたかもしれません。なぜならば、聖所で奉仕をする時には大祭司であっても、神様の御前に相応しくなければ殺されたからです。そのような状態にあるザカリヤに主の使いは「こわがることはない。ザカリヤ。」と彼の名前を呼び、安心させました。自分の名前を呼んでいる優しい声に、ザカリヤは一安心した事でしょう。主の使いはザカリヤに特別で、大切なメッセージを伝えました。「あなたの願いが聞かれたのです。」と。ザカリヤの願いが神様に聞かれたという良き知らせでした。それは一般的な願いではなく、特別な願いを意味します。また、それは一回だけの願いではなく、長い間願ったことであります。ザカリヤが聖所で祈った願いを知ることはできませんが、主の使いの話から推測できます。それは子がいない自分を憐れんでくださるよう祈ったことと自分の民族を救ってくださるメシヤの到来でした。しかし、主の使いは彼の願い以上のことを語りました。すなわち、妻エリサベツが男の子を産む知らせとメシヤが来られるという知らせだったのです。また、エリサベツが生む男の子はメシヤが来られる道を備える人物になるという知らせでもありました。その子が主の使いから「ヨハネ」という名前をもらっていることに神様の祝福とご計画が明白に示されています。長い間、ザカリヤ夫婦が忍耐と信仰を持って祈り願ったことが、大きな祝福と約束とになって神様からの答えとして返ってきました。神様は信じる者の祈りを聞かれて、神様の時に答えてくださる真実なお方であります。
Ⅱ 主の御前にすぐれた者
ヨハネという名前の意味は「主は恵み深い」という意味であります。名前は単なる名称ではなく、その人の本性と人格までもが表れるものでした。その大切な名前をヨハネの父であるザカリヤが名付けたのではなく、主の使いが「名をヨハネとつけなさい」と告げたことには特別な意味があります。彼の人生を通して神様の特別な計画があることを意味するからです。ですから、ヨハネの誕生はザカリヤとエリサベツにとって喜びとなり楽しみとなり、多くの人もその誕生を喜ぶことになりました。その理由は「彼は主の御前にすぐれた者となるからです」と主の使いが告げた事にみられます。彼は、一生をぶどう酒も強い酒も飲まず、ナジル人のように自分へのメッセージと一致した清い生活で過ごしました。まだ母の胎内にあるときから聖霊にみたされた人物であることを主の使いは告げています。ルカは聖霊の働きを強調しました。彼はルカの福音書に聖霊という単語を12回、使徒の働きには41回も使いました。メシヤが来られる働きに聖霊の働きはとても大切であることを表しています。ここで、驚くべきことは母の胎内にあるときから聖霊に満たされていたことです。それは特別な神様の導きがあることを表しています。彼の働きはイスラエルの多くの子らを、彼らの神である主に立ち返らせることでした。それは多くの預言者たちの働きと同じ働きであり、預言者としての大事な使命でした。ヨハネの働きは、イスラエルの人々を悔い改めさせ、神様に立ち返らせることであり、彼の後に来られるメシヤの道を備えることでした。ヨハネは旧約時代と新約時代をつなぐ最後の預言者でした。ヨハネは祭司の家の出身であるにもかかわらず、預言者の職務を行いました。エリヤの霊と力で主の前ぶれをし、父たちの心を子どもたちに向けさせ、逆らう者を義人の心に立ち戻らせ、こうして、整えられた民を主のために用意する事がヨハネの使命であると主の使いは教えました。「エリヤの霊と力」とは、ヨハネがエリヤの持っていた気質や影響力、またエリヤの神様から頂いた力などを持って働くことを意味します。ユダヤ人の中には、マラキ書4章5節から6節に「見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。彼は、父の心を子に向けさせ、子の心をその父に向けさせる。それは、わたしが来て、のろいでこの地を打ち滅ぼさないためだ。」と預言されているように、メシヤが来られる前には預言者エリヤが先に来て主の道を整えることを信じていました。それがマラキ預言者からヨハネが生まれる前の400年間のユダヤ人の望みでした。聖書の預言とユダヤ人の望みが成し遂げられるために必要なエリヤのような人物、それがヨハネでした。ヨハネの究極的な使命は整えられた民、すなわちユダヤ人だけではなく福音によって一つになった異邦人を含む契約の民を主のために用意することであります。それで、イエス様によって彼は主の御前にすぐれた者なのであります。
Ⅲ ザカリヤとエリサベツの反応
そこで、ザカリヤは御使いに言いました。「私は何によってそれを知ることができましょうか。私ももう年寄りですし、妻も年をとっております。」と。ザカリヤは長い間祈った願いが実現される瞬間でしたが、それを素直に信じることができませんでした。それで、私は何によってそれを知ることができましょうか。私も妻ももう年寄りでありますと答えたのです。神様の御前に正しい人であると認められた彼でしたが、祭司から引退する年も近くなり、不安になって不信になってしまった姿でした。それに対して御使いはすぐに答えて言いました。御使いは自分の名前は神様の御前に立つガブリエルであると答えました。ガブリエルという名前は「神の人」、「神の力」という意味でした。聖書の中で天使の名前にはガブリエルとミカエルが記されています。ガブリエルは人々に神様の啓示と喜びの知らせを伝える天使であります。ミカエルは神の民のためにサタンの勢力と戦い、勝利する神様の勇者であります。彼らは天使長であり、神様の御前に立って謙遜に神様の御心に従って仕える者でした。しかし、高慢になって堕落した天使長がサタンであります。ガブリエルは神様からの喜びのおとずれを伝えるよう遣わされていました。ザカリヤは不信仰のゆえにヨハネが生まれる前まで、ものが言えず、話せなくなりました。しかし、それが必ずしも罰だと考える必要はありません。何故ならば、ザカリヤが求めたしるしでもあるからです。最後にガブリエルはザカリヤに「私のことばは、その時が来れば実現します。」と言いました。それは神様の御心であり、人が拒否することができない一方的なめぐみであります。必ずそのように実現する預言であります。人々はザカリヤを待っていましたが、神殿であまり暇取るので不思議に思いました。普段、祭司は聖所に入ったら速やかにその務めを終えて外に出て民を祝福し、その働きを終えました。人々はザカリヤを待っていました。祭司が聖所に入って時間が長くなることは、祭司が神様の前に過ちを犯して罰を受けているからだと考えられていました。人々はザカリヤが出て来ることを緊張して待っていました。何故ならば、ザカリヤが聖所に入って、何かの過ちがあり罰を受けて死んだのではないかと心配していたからです。やがて彼は出て来ましたが、人々に話すことができませんでした。それで、人々は彼が神殿で幻を見たのだとわかりました。ザカリヤは、彼らに合図を続けるだけで、口がきけないままでした。やがて、務めの期間が終わったので、彼は自分の家に帰りました。彼は聞くことも話すこともできない状態であるにもかかわらず、自分の務めを最後まで忠実に行いました。その後、妻エリサベツはみごもり、五か月の間引きこもって、こう言いました。「主は、人中で私の恥を取り除こうと心にかけられ、今、私をこのようにしてくださいました。」と。長い間、人々から苦労をかけられてきた彼女は絶え間なく願い祈ったことで、その願いを成し遂げられました。それは神様の御手の中で、神様の時に、神様の方法で叶えられたのです。
終わりに
ザカリヤは聖所に入り、奉仕をしていた時、突然に天使が現れました。あまりにも突然に起こった出来事で、不安になったザカリヤは、不信仰な発言をしました。それで、彼はヨハネが生まれるまで、ものが言えず、話せなくなりました。しかし、彼は聞くことも話すこともできない状態であるにもかかわらず、自分の務めを最後まで忠実に行いました。ザカリヤは一時的に揺れ動くことはありましたが、すぐに普段の信仰を取り戻し、自分の置かれた今を忠実に生きました。彼の普段の信仰生活に戻ったのです。私たちも普段の信仰生活の大切さをザカリヤから学ぶことができます。ヨハネの誕生は天使ガブリエルによって予告されました。彼の誕生によって400年間のユダヤ人の望みは成し遂げられました。神様は信じる者の祈りを聞いて、神様の時に答えてくださる真実なお方であります。それは神様の御手の中で、神様の時に、神様の方法で答えられました。私たちも私たちの祈りが神様に聞かれ、答えが来ることを期待できます。何故ならば、ザカリヤやエリサベツ、そしてユダヤ人の400年間の祈りを聞いて答えてくださった方が私たちの神様であるからです。お祈りします。