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2015年9月13日主日礼拝
聖書:ルカの福音書1章5節ー10節
説教題「新しい希望の光」

序) 今日のみことばはルカの福音書1章5節から10節までです。みことばに書いてある神様の御心が何か共に学びましょう。私たちは先週からルカの福音書を、講解説教を通して学んでいます。前回ではルカが福音書を書いた目的と理由を学びました。また、聖書は、イエス・キリストの福音は事実であり、それを私たちが知るためである事を学びました。今日のみことばに主に登場するのはザカリヤとエリサベツという人物です。彼らは6節を見ると神様の前に正しい人でした。また、ザカリヤは祭司でした。5節を見ると彼らは「ユダヤの王ヘロデの時に」に生きていた人物でした。

1 新しい希望の光

私たちが読んでいる聖書の旧約聖書と新約聖書の間には約400間の歴史がありました。預言者マラキを最後には預言者の働きは中断され、神様からイスラエルの民に語られる預言は無くなりました。この四百年でパレスチナ地方の政治的、宗教的、社会的環境は大きく変わりました。紀元前532−332年までイスラエルはペルシャ帝国に支配されていました。ペルシャ帝国はユダヤ人が自らの宗教行為を行う事や、神殿を再建し、そこで礼拝する事を許しました。この再建の時期には旧約時代最後の百年と中間時代最初の百年が含まれていました。アレクサンドロス三世がペルシャのダリウス王を打ち負かし、ギリシャを世界的な王国としました。アレクサンドロスはアリストテレスの下で学び、ギリシャ哲学と政治の教養があり、征服した国々でギリシャ文化を広めるよう命令しました。その結果、元々へブル語で書かれていた旧約聖書はギリシャ語に翻訳され、「七十人訳」と呼ばれるようになりました。アレクサンドロスはギリシャ的生活を強く要求しながらもユダヤ人の宗教の自由を認めていました。しかし世俗的、人間中心的で神を恐れないギリシャ文化に影響されることは決して良い事ではありませんでした。アレクサンドロス三世の死後、ユダヤ地方は何人もの後続者に支配されました。特にアンティオコス四世エピファネスは、ユダヤ人の宗教の自由を認めないだけでなく、紀元前167年には祭司達を除き、宗教的に汚れていた動物達や非ユダヤ教の祭壇などを持ち込んで神殿を汚しました。やがてユダヤ人たちのアンティオコスに対する反乱が起こり、正しい祭司達が取り戻されて神殿を救いました。それが「マカバイ戦争」であります。この戦争で勝利したユダヤ人たちは、まず、最初に神殿を清めました。また、律法と神殿を中心にした宗教生活を整えました。紀元前63年ごろ、グナエウス・ポンペイウスがパレスチナ地方を征服し、ユダヤ地方の全てはカイザルの支配化に置かれました。ヘロデはその時代であるB.C37年、ローマの元老会議で税金上納と治安維持などの約束をし、ユダヤ地方を治める政治的な力を得ようとしました。それで、当時の権力者であったアウグストゥスとマルクス・アントニウスの力を借りて、ユダヤ地域を納める分封王となり、B.C4年、彼が死ぬまでユダヤの実際的な統治者になりました。彼は異邦人でしたが、勇気があり、戦略に優れた政治家でした。特にユダヤ人に対して融和政策を取り、自らユダヤ教の後援者になりました。それで、彼はエルサレム聖殿の再建とともに多くの公立の建物を建てることによってユダヤ人の心を得ようとしました。しかし、その反面、自分の政権維持のためには自分の息子、妻や義母、義兄、おじまで殺すぐらい残酷でした。それにもかかわらず、政治力にとても優れていたので、ローマの力を利用して大祭司の任命と廃位まで関与するまで力を得ました。しかし、それにより堕落しました。彼が統治した時代は宗教的に堕落した時であり、政治、社会的にも希望がない時代でした。そのような暗闇の時代に,ルカは新しい希望の光について語っています。特に、彼は預言者マラキ(B.C.435-425)以来神様からの啓示が中断された400年間の暗闇の時代が終わる偉大な黎明期が始まったのだと語っています。

2 ザカリヤとエリサベツ

ザカリヤという名前は「神が覚えてくださる」という意味です。また、エリサベツという名前は「私の神は誓約の神である」という意味です。この夫婦は二人とも祭司の家の出身です。ですから、彼らの結婚はとても祝福されたものでした。律法ではイスラエルの民の中で処女と結婚するように命令されていますが、必ずしも祭司の家の出身である処女と結婚しなければならないとは書かれていません。ですから、ザカリヤがアロンの子孫であり、大祭司の家の出身であり処女であったエリサベツと結婚したのはとても祝福であり、光栄あることだったのです。6節を見るとふたりは神の御前に正しく、主のすべての戒めと定めを落度なく踏み行っていたと記されています。彼らは律法に対して完全な者でした。彼らは神様の御前に正しい人でした。それは神様の基準で正しい人、神様の命令を完全に守る人、あるいは神様から良き評価をもらっている人を意味しました。正しい人という意味はただ人間的で、倫理的に優れていることを意味しません。人はいくら優れた人格を持っていたとしても神様の前に正しい人にはなりません。人が神様の前に正しい人になる道はイエス・キリストの贖いによる義の道だけです。その義のゆえに人は神様の前に正しい人になります。それに従って考えると、ザカリヤとエリサベツも本質的には罪人です。ですから、彼らが守った律法という行いによって正しい人になったのではなく、神様への信仰を神様が認めてくださったから正しい人になったのです。すべての義の基準は神様です。イスラエルの民にとって正しい人であると呼ばれることは最高の称賛であり、憧れでもあります。それは神様に完全に献身した敬虔な人だけに与えられるからです。例えば、旧約ではアブラハム、イサク、ヤコブがいますし、新約ではパウロがそのような人物です。しかし、この6節の表現は旧約の律法時代の義人観に従ったことであります。すべての人は罪人であるという福音の観点と区別する必要はあります。彼らは「主のすべての戒めと定めを落度なく踏み行っていた」と記されています。主のすべての戒めと定めとは神様の権威ある命令を意味します。それは神様から頂いた完全で、聖なる命令であります。彼らはそれをしっかり守っていたので、人々から非難されることや叱責されることはありませんでした。彼らの信仰は神様の御前に認められていたと同時に人々の間でも認められていたのです。彼らは神様の御前でも、人々の前でも正しい人たちでした。彼らの信仰と生活は一致していました。しかし、彼らには長い間祈らなければなかった大きな問題がありました。エリサベツが不妊の女だったのです。彼らは子供のために長い間、祈りましたが叶えられませんでした。それで、彼らは子供がないままであり、ふたりとももう年をとっていたのです。ユダヤ人は子どもたちは主の賜物であり、祝福であると考えていました。ですから、子供がないことは大きな恥であり、神様に対する罪の刑罰だと考えられていました。また、ユダヤの教師たちが書いた「人が神様から破門される7つの類型」という本には、ユダヤ人であるのに妻がいない人と妻がいるにもかかわらず子供がいない人がそれに当たると記されています。子供がいないことは公法的な離婚事由にもなっていたのです。しかも、彼らは年をとっていたので妊娠はもう不可能な状態でした。彼らは誰よりも神様の御心に従い生きようとした夫婦でした。ザカリヤはアロンの子孫であり、大祭司の家の出身で処女であったエリサベツと結婚したのは祝福の中の祝福でした。彼らは人々から憧れの存在でした。しかも神様の前に正しいと認められる人でした。しかし、彼らには神様からの大切な祝福のしるしであり、約束である子供がいませんでした。それは神様からの祝福というより呪いでした。彼らは神様から捨てられた存在であり、祭司としてふさわしくない者だと落胆していたかもしれません。周りの人々も理解する事が難しい問題でした。こんなに神様を愛し、その御心に従って生きようとしている夫婦にはとても厳しい現実でした。天に向かって叫んでもその答えが出ない問題でした。しかし、彼らは落胆することもつぶやくこともなく、ただ自分たちに置かれている今を忠実に、そして自分に任されたことを祈りながら神様の前に生きたのです。

3 神様のくじ

8節で、「さて、ザカリヤは、自分の組が当番で、神の御前に祭司の務めをしていたが、祭司職の習慣によって、くじを引いたところ、主の神殿に入って香をたくことになった」と書かれています。ルカは8節から新しい展開が始まることを予告しています。ザカリヤは自分の組が当番になり、神様の御前に祭司の務めをしていました。ザカリヤには普段の生活と務めでした。当時、ユダヤ人の祭司は約2万人で、24組に分かれていました。その組は1000人ぐらいずつに分かれていました。それぞれの組の祭司は1年に1週間、2回聖殿で奉仕をしました。ザカリヤはアビヤの組で、八番目の組に属していました。いよいよザカリヤも自分の組が当番になりました。その祭司の務めをしていた時に大きな祝福があったのです。それは、ザカリヤが祭司職の習慣によって、くじを引いたところ、主の神殿に入って香をたくことになったのです。それはとても特別なできごとであります。個人の祭司が主の神殿に入って香をたくことになるのはとても珍しいことであり、一生に一度あるがないかのことであります。なぜならば、当時の祭司は2万人ぐらいいたからです。それを考えると多くの祭司の中で、くじを引いて当たる確率はとても低いものでした。従って、この出来事は生涯の中で、最高の栄光であり恵みでした。24組に分かれている祭司たちは自分の番になるとくじを引いてそれぞれの役割を決めました。ここで行われたくじを引く事はただの迷信的な行いではなく、神様の御前で行う神殿の儀式でした。旧約には新しい土地を分ける時、初めての王を選ぶ時、罪人を探す時などにくじが使われました。新約ではマッテヤが十一人の使徒たちに加え選ばれる時に使われました。くじを引くことはあらゆる意思決定に使ったのではなく、神様の特別な啓示を求める時に使われました。神様がご自身の御心を人に示すために特別に許された手段として存在していました。しかし、特別啓示である聖書が完成され、聖霊が働かれるようになって以降は無意味なことになりました。ですから、くじを引いたことが大事なのではなく、神様がそれを用いて導いてくださったことが大事なのです。ザカリヤは主の神殿に入って香をたくことになりました。香をたくことは祭司の任務で、民の心の願い、すなわち祈りを意味します。彼が香をたく間、大ぜいの民はみな、外で祈っていたのです。神様の御前に祭司も民も心を合わせて祈っていました。その祈りの瞬間に偉大な歴史が始まろうとしています。

終わりに

ザカリヤとエリサベツの生涯で特徴的な事は、神様の御前に生きたことでした。また、彼らは祈りの人でした。ザカリヤは神様の御前に生きるために結婚も働きも、自分個人の生活も聖別していました。彼は自分の妻エリサベツが不妊の女であり、子がありませんでした。それにもかかわらず、神様の御前に生きる信仰はぶれませんでした。また、ふたりとももう年をとって、子供を産むことが不可能な現実に向き合っても、彼らはその祈りを中断しませんでした。彼らはとても厳しい現実が目の前にあっても、ただ自分たちの置かれている今を忠実に、そして自分に任されたことを祈りながら神様の前に歩みました。そのような彼らを神様は見捨てずに覚えてくださいました。しかも、暗闇の歴史から新しい希望の光の幕を開ける者の親として選んでくださったのです。彼らは自分たちの解決できない問題から解放されるだけではなく、偉大な神様の働きに用いられる特権をいただいたのです。なんと素晴らしいことでしょう。それは神様の限りないめぐみであり、彼らが神様の御前に生きてきた信仰の証なのです。お祈りします。