2015年8月9日主日礼拝
聖書:ヘブル書12章1節ー3節
説教題「最後まで走れ!」
今日の御言葉はヘブル書12章1節から3節までです。私たち信仰の旅が最後まで、主に守られることを祈りながら今日の御言葉に入りたいと思います。
1 このように多くの証人たちのように
1節の「証人」ということばはギリシャ語「marturon」で「観客」を意味します。本文はゴールに向って走る運動競技として描写されています。しかし、この本文の「marturon」はただ座って見ている観客を意味しているのではありません。彼らは真理を宣べ伝えるために積極的に参加した者たちを意味しています。彼らは11章に書かれていた人々で、多くの苦難の中でも信仰の競走を最後まで走りました。すなわち、私たちの信仰の先輩たちを指す言葉です。彼らは苦難の中でも神様を信頼し、忍耐をもって忠実に走りました。ヘブル人への手紙の記者はこの証人と同じく苦難の中でも忍耐を持って忠実に走り続けることを勧めています。彼らが今の私たちを雲のように取り巻いて、応援しています。私たちはその戦いの真ん中にいます。「いっさいの重荷」とはギリシャ語では「オンコン」で、運動選手が運動に最善を果たすのに邪魔になる体重などや避けるものを意味します。キリスト者にとって、それは富を愛することや世に対する関心であり、世を愛することであります。この世から離れて生きることは出来ませんが、この世の中でキリストの証人として生きることはこの世の常識に従わないことです。富があれば体は楽になりますし、色々なことが出来るようになります。しかし、それが信仰のレースには重荷になって、走りにくくなるのです。私達は世に関心をもって、世の人々を救うために努力するべきです。しかし、自分のために世に関心をもったり、世のことが自慢になり高慢に落ちる危険があります。世の中で生きていても、自分は今天国のレースに走っている選手であることを忘れるとそのゴールからだんだんははずれてしまうのです。私たちはそれに気をつけるべきです。続く「まつわりつく罪」とはギリシャ語では単数であり、特定の罪を指す言葉ではなく、罪そのものを意味します。この本文では競走の中で経験する弱さを表しています。弱さは人それぞれですがそれを乗り越えて走り続けます。弱さを乗り越えて走りるためには、イエスさまに助けを求める祈りが必要です。自分の力で出来ることは弱さではなく、どうしても出来ないことが弱さだからです。それにはどうしても解決出来ない罪との戦いも含まれています。それらすべてのものを主にゆだね、走り続けるのです。キリスト者は信仰の競走の中では、不要で邪魔になるものはすべて捨てて、忍耐をもって走り続けるのです。多くの証人たちが走り続けてゴールしたように、すべてのキリスト者は目指すゴールに到達するため走り続けるべきなのです。
2 信仰の創始者であり、完成者であるイエス
「信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい」とはキリスト者の競走の目標はイエス様であることを意味します。その信仰は11章で登場する多くの証人の生き方に見られた神様に対する絶対的な信頼であり、イエス様の地上での生活でも現されました。彼らはあざけられても、むちで打たれても、石で打たれても、こざりでひかれでも、剣で切り殺されても、その信仰を曲げることはありませんでした。それは、イエス様がこの世で自ら十字架の道を歩かれたからです。彼らもその道を歩いたのです。そのイエス様は信仰の創始者であられ、完成者であられます。「創始者」のギリシャ語は「始まる」という意味で、キリストが多くの証人より先に信仰の道を歩んだ方であることを意味します。それは、主がイスラエルの民をエジプトから救いだし、荒野でも同行した方であられるからです。(ユダ1:5)そして、イエス様は自ら神様に徹底的に従われました。多くの苦難と苦しみがあっても、逃げることしませんでした。最後は十字架の杯まで飲まれました。ひたすら、その道を無口で歩き続けられたのです。ゴールに向かって最初にその道を走った方はキリスト・イエスなのでした。 その道の創始者であられるイエス様はその道の完成者でもあられます。「完成者」とはキリストが地上での生活の中でその信仰を完全にされたことを意味します。キリストが自ら行った信仰の生き方を表す言葉であります。神の御心に従ったキリストは神であり、人間である姿で父なる神に従われました。世のはじめから、また、アブラハムに約束されたその契約を成就するために最後まで従われました。ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。この箇所の「ゆえ」には二つの意味があります。一つ目は「何々の代わり」という意味です。それはキリストが天の栄光を捨てて罪人である私たちの身代わりとなり、十字架の道を歩まれたことであります。父なる神様と和解するために十字架の残酷な裁きを私たちの身代わりに受けられたのです。本来、あの十字架には私たち一人一人が付けられなければならなかったものでしたが、その苦しみと苦難を身代わりに受けてくださったのです。二つ目は「何々のために」という意味です。それはやがてくる喜びのために、はずかしいものである十字架の道を選んで歩まれたことであります。キリストは多くの契約の民が救われ、父なる神様と和解する喜びと栄光をご覧になったからです。また、死を滅ぼし神様の完全な勝利の宣言と天の栄光のためでもあります。そして、キリストは「神の御座の右に着座されました」と書かれています。「着座されました」とはギリシャ語では完了型で、キリストが永遠に神の右の座に座っておられることを意味します。キリストは十字架のはずかしめを忍耐を持って耐え忍ばれました。また、それによって勝利したものは永遠で完全なものであります。それには何も付け加える必要がなく、付け加えることが出来ない完全なものです。それを信じるものはすべて味わうことになったのです。
3 忍ばれた方のことを考えなさい
キリストの苦難は、苦難の中にある人々の共同体に大きな励ましになります。キリストは自分に逆らうものに対して忍耐を持って、無口でひたすら十字架の道を歩かれました。一歩一歩歩くその道には汗と血が混じったものが地に落ち、人々のからかう声が耳に入る道でした。しかし、キリストはその道を何も言わずに歩み続けられたのです。もし、キリストはその道を途中でやめたとしたら私たちの救いはどうなったでしょうか。キリストにはその十字架の道をやめる権利も力もありました。もっと楽ではなやかな道を選ぶ権利もありました。しかし、キリストはその代わりに、血が流れ、痛む背中に十字架を背負う道を選ばれたのです。いばらの冠が指さり、流れる血で目の前が見えなくなっても、一歩一歩ゴルゴタの丘を登り続けられたのです。人々のあざける声とのろいが耳に聞こえても、その道を一歩一歩歩き続けられたのです。体全体はぼろぼろになってもう力が入らない時であっても、もう一歩を踏み出すために最後の力を足に入れたのでした。その理由は十字架に付けられるためでした。
結論)
なぜ、キリストはそこまでされなければならなかったのでしょうか。それは神様の恐ろしい裁きから人の罪が許されるためには、それが唯一の道であったからです。それしかなかったからです。私とあなたが救われるためにはその道しかなかったからです。なぜキリストはゴルゴタで、無口に登り続けたのでしょうか。私を赦すため、あなたを赦すためにキリストはひたすら歩き続けたのです。もしかしたらあの群衆の中で、石をもって、声をあげてのろい、「十字架に付けろ」と叫びつづける姿は私とあなたの罪深い姿であるかもしれないのです。歴史の中では、多くの信仰の先輩たちがその十字架の道を歩きました。いや、彼らは走りました。倒れても転んでも彼らは走り続けました。主は重い十字架を持って歩かれましたが、私たちにはあの重い十字架はありません。ですから、当然、私たちは走るべきでしょう。私たちにはつまずいたり休んだりするような資格や暇はあるでしょうか。私たちの現実はそんなに甘くはなく、簡単でありません。実際には難しい現実です。しかし、幸いなことに、我が主、イエス・キリストは私たちの弱さをよく知っておられる方です。主・イエス様は今日の御言葉を通して私たちを励ましておられるのです。そして、今、イエス様は私たちにこう語っておられるのです。「さあ、立ちなさい!そして走りなさい!私が応援してから!見守っているから!いや、今、あなたとともに走っている!そして、ゴールを目指して!私があなたのために輝く命の冠を備えて、待っているから!」と。