2015年8月2日主日礼拝
聖書:ガラテヤ人への手紙6:14
説教題:主イエス・キリストの十字架のみ
今日の御言葉はガラテヤ人への手紙6:14節です。ガラテヤ人への手紙はパウロがガラテヤ教会に送った手紙です。ガラテヤとは小アジア半島の北部あたりを指します。そこにある教会に送った手紙です。この教会はパウロが伝道して建てたものです。ところが、この教会に問題が起きました。その問題はユダヤ主義者が教えた内容から始まり広がったものでした。パウロの伝道によって建てられたガラテヤ教会に、ユダヤ主義者が入り込み、救われるためにはユダヤ人の律法を守り、割礼を受けなければならないと教えたのです。ガラテヤの人々はそれに惑わされました。彼らはパウロも聖書も教えていないものに耳を傾けたのです。それで、パウロはガラテヤ教会に急いで手紙を送りました。彼らにキリストの十字架以外に救いはないと福音の基礎であり中心である恵みを激しい口調で伝えています。
では、なぜ、その教えが問題になるでしょうか。旧約聖書に書かれている割礼と神の律法を守るよう教えることは間違ったことでしょうか。むしろ、それは忠実に守るべきであり、神の民にふさわしい伝道であります。しかし、パウロはそれを強く批難しています。それは、彼らが救われるための条件として教えていたからです。パウロは2章16節で「しかし、人は律法の行ないによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行ないによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行ないによって義と認められる者は、ひとりもいないからです」と言っています。ユダヤ主義者が教会に持ち込んだ教えに対するパウロの教えは明白なものでした。ユダヤ人の律法を守ることや割礼を受けることが救いの条件になり、それによって救われることは決してなく、ただ、キリストの十字架のみで可能であると固く語られています。パウロはそれを知ったから信じるようになったと語っています。律法の行ないによって救われる人はだれ一人もいないと語っているのです。人間は福音に純粋に従うより、自分の伝統や習慣から学んだこと、自己満足的で宗教的な行いを求めやすいものであります。ですから、ただ恵みのみ、十字架のみは理解しづらく、何とか自分の力でやりたいものです。ユダヤ主義者たちも救われるために割礼と律法を条件として付け加えました。彼にとってそちの方が都合が良かったからです。しかし、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められるのであり、律法の行ないによって義と認められる者は、だれひとりいないのです。それは、救いにおける神の御業に対して人間の能力はすべて無駄な事であるからです。イエス・キリストの十字架を信じる信仰だけが有効で、十字架の御業によってすべてが完成したからです。それをパウロははっきりと語っています。
つづけて、2章20節では「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。」とパウロは告白します。パウロは昔の自分はキリストの十字架とともに死んだと語っています。最高の教育を受けた背景を持つ彼は、誰よりも律法に忠実でした。しかし、彼はすべてのものがキリストの十字架の前では空しくなったと告白しています。キリストの十字架より価値あるものはこの世には存在しないと告白しているのです。そのキリストの十字架に自分も死に、キリストが自分の人生の新しい主になっていると告白しているのです。今まで多くの信仰者を迫害したパウロの驚くべき変化であります。パウロは6章14節でも、「しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。」と述(の)べています。パウロはそれまで学んだ最高の教育で得たものや、社会的な地位や名誉などすべてを捨てでも十字架に従うようになりました。その十字架がすべてだと宣言しているのです。しかし、ユダヤ主義者は割礼によって自分の肉を誇りにする者たちであり、それは彼らが十字架のために迫害を受けることをしないように願っているとパウロは批難しています。彼らは十字架の恵みの中に入ることより、ユダヤ人であると認められることの方がより大事であったからです。しかし、そこには救いはありません。
では、なぜ、ユダヤ主義者は教会にその教えを持ち込んだでしょうか。彼らは、キリストを律法学者の一人、予言者の一人であることを認めました。しかし、キリストが救い主であり、救いが十字架によって完成したことを受け入れませんでした。その理由は二つ考えられます。一つ目は、彼らは十字架を受け入れると、律法の力を無効だと、またすべての人が罪人だと認めることになってしまうからです。また、十字架につけられる者は神から呪われたものだと思っていたので、十字架を認め、神から呪われたイエスを救い主とすることは理解し辛いものでした。それで彼らはそれを受け入れることが出来なかったです。
二つ目は、キリストの働きと十字架を認めることは割礼の無効性を認めることになりますので、ユダヤ教徒である彼らはユダヤ教の伝統に違反することになるからでした。それにより、別のユダヤ人から迫害を受けることになります。ですから、彼らは迫害を受けたくないために割礼の正当性を主張しているのです。自分の身を守り、利益を得るために真理を変えてしまっています。彼らは信じて天国には入りたいと願っていましたが、十字架と迫害は避けたかったのです。しかし、パウロは大胆に彼らの二重性を指摘し、ただ十字架だけを誇るようにはっきりと語っています。「しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。」
誰よりも誇る資格があったパウロは「主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません」と明確に語っています。それ程にパウロは十字架を強調していますが、そもそも十字架には誇れるものがあったのでしょうか。十字架はどんなものだったでしょうか。本来、十字架は誇るものではなく、残酷(ざんこく)なもので、神から呪われた者が十字架に付けられました。最も悪い罪人が架けられる最高の死刑の道具でした。それは、不名誉であり恐ろしいものでした。十字架の言葉すら口に出しくないほどものでした。しかし、パウロはその十字架が誇りであり、それしかないと大胆に言っているのです。それはなぜでしょうか。パウロにとって十字架は何でしょうか。どうゆう意味があったでしょうか。
それは、一つの罪もないキリストが、人の罪のため十字架につけられ神からの裁きを受けられたからです。その十字架によって、人が罪から解放され、新たな命の道が開かれたからです。その道は主イエス・キリストによるもので他には決してありません。ですから、パウロは主イエス・キリストの十字架以外に誇りはありませんと叫んでいるのです。その新しい道はパウロ、弟子たち、多くの信仰者たち、また、私たちのための道であり、選ばれた神の民のための道であります。パウロだけではなく、私たちも主イエス・キリストの十字架以外に誇りはありませんと叫ぶべきなのです。 パウロ自身、「この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。」と言っています。世界は私に対して十字架につけられました。私も世界に対して十字架につけられたました。この二つのできことは十字架で起きました。また、同時に起こったできことなのです。
1.「世界は私に対して十字架につけられた」とは主イエス・キリストの十字架によって世界は私に対して十字架につけらたことです。以前の私たちはこの世の支配を受け、罪と死に縛られた者でした。この世の常識に従う者でした。しかし、私たちは、キリストの十字架によって罪と死、またこの世界から解放されました。もう、この世の常識による者ではないのです。神の国の常識に従う者になったのです。この世界は十字架につけられてもはや私たちに対する有効性がなくなったのです。私たちに対する支配や権利は完全に無効になったのです。十字架で死んで消滅されたのです。ハレルヤ!キリストが買い戻してくださったのです。私と世界との関係は全く新しくなったのです。
2.「私も世界に対して十字架につけられた」とは、世界が私に対して十字架につけられすべての関係が新しくなったことと同時に、私たちが世界に対する関係にも大きな変化が起きたのです。それは私たちが世界に対して持つ権利や希望、欲望が十字架につけられ無効になったということです。すべてがキリストの十字架によって新しく生まれ変わったということです。それはキリストのもとにすべてが買い戻されたことであります。もう私たちのものはありません。すべてがキリストのものになりました。私たちにはもう振り返る道は無く、ただ、十字架の道だけが残っています。すべてが十字架で終わり、すべてが十字架によって始まりました。私たちはすべてがキリストによって新しく生まれ変わったのです。それがキリストが私たちになさった十字架の御業なのです。
結び)今の時代、直接、私達に割礼問題や律法に関する問題はありませんが、この世を風靡する考え方には傾きやすい問題はあります。ユダヤ主義者のように信じようとしない人もあれば、信じても十字架は負いたくなく迫害も受けたくないので周りに合わせて言い訳しながら他の教えに従う人もいます。「時代の流れだから」とか、「こんなに信じるものが少ない所では無理でしょう」と思ったり、「相手に嫌な思いをさせたくないから」と言い訳しながら簡単に真理を変える場合もあります。いずれにしても、既に十字架に死んだはずなのに、世に対して死んでない人達です。しかし、私たちは十字架に死んだ者です。死んだ記憶がないかもしりませんが、私が十字架のイエスを信じた瞬間、キリストとともに死んだのです。これから死ぬことではありません。その十字架によって、生まれ変わった新しい者として生かされています。ですから、この世に従ってはいけません。私たちの人生は自分のものではありません。パウロは「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。」と教えています。この世と調子を合わせるのではなく、神のみこころに合わせるために自分を変えなさいと言っています。目に見えるものではなく、目に見えなくても永遠なものに従うよう語っています。それが真理であり、命であり、真の道であり、私たちの本来の生き方であるからです。この厳しい社会の中で神のみこころに従って歩むことは簡単ではないでしょう。また、それによって大きな損害や迫害を受ける覚悟をしなければならないこともあります。周りからいじめを受けたり、嫌なことや恥ずかしいこともあるかもしれません。自分の信仰についてはっきり言わなければもっと楽に過ごすことが出来るかもしれません。キリストは私たちのために大きな苦しみ、いじめ、恥ずめを受けられました。人々から嫌われ、十字架に付けられ神からの裁きも受けられました。神の子であるキリストはもっと楽に過ごすことも出来ました。そんな嫌なことはしなくでも問題はなかったはずです。しかし、キリストはそうしませんでした。むしろ、キリストは神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えられたのです。それが十字架なのです。ですから、私たちも十字架だけを誇り、わきまえて神のみこころを知るために自分を変え従うべきなのです。