ようこそ。香芝めぐみ教会へ。

2015年7月19日主日礼拝
説教題:「いつも喜ぶ生活が出来る秘訣」
聖書:ピリピ3章17節ー4書7節

恵み深い父なる神様。
今日も感謝します。今から御言葉の時間を持ちます。聖霊様が私たちの内に働いてください。神様の御言葉を理解できるように導いてください。すべてのことを感謝し、イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

私たちは前の説教で、パウロの生き方を通して目標を目指して生きる人生について学びました。今日は私たちがいつも喜ぶ人生が出来る秘訣を学びます。色々なことがしばしば起きる人生の中で、私たちは平安をもって喜んで生きる人生を過ごすことが出来るでしょうか。今日も今日の御言葉を通して神様の御心が何かともに学びましょう。

1.私たちの国籍は天にある。

パウロは3章17節ではコリント教会の人々に話したようにピリピ教会の人々にも習う模範としてパウロ自身を示しています。パウロのこの勧めは自分が優れた者であるのを現すものではありません。ピリピ教会の人々にはキリストに献身するために具体的な模範が必要でした。それで、パウロはイエス様に従い献身した自分を見ならうように勧めています。また、パウロは17節の後半では私たちを見ならうようにと勧めています。それは、自分だけではなく、テモテとエパフロデト等の同じ働き人の信仰も見ならうように勧めています。パウロは18節では涙をもって、多くの人々がキリストの十字架の敵として歩んでいる事を話しています。彼らはキリストの贖いの恵みと自由を歪め、自分勝手に生きる人生を過ごしていました。その人たちは律法のすべての禁止項目を否定して自分に都合が良い方法にしました。「彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。」とパウロは警告しています。彼らは肉の欲望に満ちた生活をし、快楽と物質が一番大切で、世の価値観に縛られている人たちです。神様の国と天の物に対する話が自分には遠い話で、それに対する希望と関心がない者なのです。その人の最後は滅びです。しかし、「私たちの国籍は天にあります。」とパウロは強く宣言しています。パウロはローマの市民権を持っていました。今はローマから遠く離れていましたが彼はローマ大国に属していました。ですから、パウロがローマ市民としての特権を持っているように、ピリピ教会の人々はこの世では異邦人であり旅人のように生きていても、天国、すなわち神の国に属している者達です。パウロはピリピ教会の人々が、たとえ今はこの世に住んでいても、神の国の市民権を持っている者なので、神の国の市民として相応しく生きる責任と義務を喜びなさいと勧めています。なぜならば、キリスト者の故郷は天にあるからです。ですから、キリスト者は天にある物に関心を持ち、再び来るイエス様を待ち望む人生を送ります。私たちの生き方には神の国の市民として生きる特権があります。それは世の人々と同じように生活し、勉強し、働いても、その中身と目標は全く違うという事を意味します。すべてのことの第一順位が神様であり、神の国のために生きる人生になるのです。それは特定な人や熱心な人だけの話ではありません。イエス様を信じるすべて者に当たるのです。また、私たちは自分の故郷が神の国であり、今は旅人である事を常に覚える必要があります。旅人はいくら旅の地が素晴らしくて、気に入っても家に帰るのが前提です。いくら長い旅でも必ず家に帰ります。ですから、旅の時には無理せずに必要に応じて旅をするのです。もちろん、私たちがこの地上に住むのはとても長い旅です。実際には旅だと思うことは難しいです。ですから、この地上に住むために必要な物に必死になってしまいます。しかし、聖書は私たちが異邦人で、旅人だと教えています。いつも家に帰る準備をしなさいと教えています。この地上に住むための必要な物に必死になって、それに心と生活が捕われている事から十字架の敵として歩むことが始まると警告しています。大切なのは、神様が一番大切である基準をしっかり守りながら、この地上に住むために必要な物に対する関心と支払いのバランスを取って生活する事です。私たちにとってそのような生き方が必要である理由は主イエス様が私たちの天の家で待っておられるからです。また、イエス様が再び来られる時、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるからです。「私たちの国籍が天にある」、それがいつも喜ぶ生活が出来る第一の秘訣なのです。

2.私たちの名がいのちの書にしるされている。

パウロは4章1節では、ピリピ教会の人々に「私の愛し慕う兄弟たち、私の喜び、冠よ。どうか、このように主にあってしっかりと立ってください。私の愛する人たち。」と話しています。パウロは自分が牧会しているピリピ教会の人々が主にあって成長するのは彼の喜びであり、冠だと告白しています。それはパウロの働きは無駄でない事を表しており、後に神様から賞をもらう根拠となります。パウロはピリピ教会の人々に主にあってしっかりと立ってくださいと命じています。それは現在命令形で、「真実に立つ、堅く立っている」という意味です。それは兵士が戦いの中で、敵からの攻撃があっても歩哨でしっかり立ち続ける姿を表す時、使った言葉です。このように困難の中でも揺るがれることなく、しっかり立つように勧めています。しかし、それはただ我慢することや忍耐をすることではありません。大切なのは「主にあって」なのです。ギリシャ語ではエン・キュリオ(εν κυριω)です。私たちが今、イエス様の内にいるかどうかが一番大切なポイントになります。それは日々の生活の中で、イエス様とともに歩んでいるかどうかが問われるのです。その日々の交わりの力によって、難しい試練のときも乗り越えられるのです。4章2節からはユウオデヤとスントケへの勧めが書かれています。それは「主にあって一致してください。」という命令です。ユウオデヤは「順調な旅」、スントケは「幸運の機会」の意味の名を持つ女性でした。彼女達の間には争いがあったのです。ピリピ教会は紫布の商人のルデヤによって立てられた教会です。ですから、比較的に教会の中でも女性の働きと役割が大きかったようです。したがって、この二人の女性の不和は教会に悪い影響を与えました。パウロは以前の手紙でも「主にあって一致してください。」と命じた事がありましたが、今回は二人の女性に個別に勧めています。それは具体的で、深い勧めです。それぐらい二人の問題は大切で、深刻な問題でした。それで、パウロは「主にあって一致してください。」と命じています。二人とも主から離れることなく、和解と一致を保つために主イエス様の愛の模範に習い、お互いに赦し、従い、和解することで、教会の徳を高めるように勧めています。4章3節では「ほんとうに、真の協力者よ。あなたにも頼みます。彼女たちを助けてやってください。この人たちは、いのちの書に名のしるされているクレメンスや、そのほかの私の同労者たちとともに、福音を広めることで私に協力して戦ったのです。」と話し、この二人の婦人のために協力者の助けを求めています。この二人の婦人は福音のために熱心に働いた人達です。主のために働く中で争いが起こったのです。ですから、まず、パウロは二人で解決するように勧めています。それと同時に信頼出来る人に彼女らを助けるよう求めています。異端者や偽りの教師と違って、彼女達は教会に忠実な者で、クレメンスや、そのほかのパウロの同労者たちとともに、福音を広めることで協力して戦っていました。よく働く人達でした。しかし、その彼女たちの争いが教会に与える悪い影響は大きかったので、パウロはわざわざ名前をあげて和解を命じています。それはとても愛のある忠告です。その理由は彼女たちの名前がいのちの書にしるされているとパウロが励ましているからです。たとえ今は証にならない状態になっていても、彼女達の働きは十分に尊重するものであり、その働きは大切なものでした。その尊い働きをパウロと多くの人々が覚えていました。そして、彼女達の働きを神様も覚えていました。ですから彼女達の名前はいのちの本に記されています。この世は主のために生きる人の名前を覚えてくれません。しかし、主はその人たちに永遠の命を与えますし、その名前を覚えてくださいます。しかも、その名前をいのちの本に書いて下さいます。この世には私たちの名前をしる人は限られていますし、多くの人に知られることは滅多にありません。仮にそういうことがあったとしてもすぐに人の記憶から忘れられてしまいます。そんな私たちの名前を神様は覚えておられます。何と素晴らしいことでしょうか。聖書には書いてありませんが、私の考えでは私たちの母国の言葉で書かれている可能性が高いのではないかと思っています。いずれにせよ、いのちの書に私たちの名前がしるされている、それがいつも喜ぶ生活が出来る第二の秘訣になるのです。

3.いつも主にあって喜びなさい。

パウロは4章4節では「いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい。」と語っています。パウロは「喜びなさい」を2回も話しています。この言葉は能動形で命令法を使っています。どんな時でも喜ぶことを強調しています。パウロ自身はこの手紙を書く時はローマの獄中で、厳しい状況でした。ピリピ教会の人々はパウロが苦難と獄中の中でも信仰にしっかり立って、喜ぶ生活を過ごした事を覚えていました。ですから、この言葉はピリピ教会の人々に大きな励ましになりました。ここで大切なのはエン・キュリオ(εν κυριω)です。すなわち、「主にあって」です。パウロの喜びの源はイエス・キリストです。イエス様がどんな状況の中でも喜ぶことが出来る十分な根拠になりました。それは私たちにもそうです。4章5節では「あなたがたの寛容な心を、すべての人に知らせなさい。」と勧めています。寛容な心とは損害と逆境の中でも簡単に動揺したり倒れたりしない、平静を保つ霊的な忍耐を意味します。また、それは自分の当たり前の権利を放棄し、他の人々に対して寛大な態度を取る事も意味します。パウロはこのような態度をある特定な人々だけに示すのではなく、未信者の人たちにも自分を迫害する人々にも示すよう勧めています。パウロはその理由を「主は近いのです。」と教えています。つまり善悪を正しく判断してくださるイエス様の再臨が近いから忍耐を持ってすべての人に寛容な心を知らせなさいと勧めているのです。4章6節では「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。」と勧めています。パウロは何も思い煩わないようにしなさいと命じています。それは思い煩いを中断しなさいという意味です。目の前にある問題を心配し、不安になって、必要以上の関心を注がないようにしなさいと勧めています。その問題の解決は祈りと願いです。問題に集中するのではなく、神様に集中し、必要を神様に話すのです。それは感謝をもってささげます。私たちが神様に感謝する事は神様がすべてのことを益にしてくださる方であると、神様への信頼を表す行為になります。神様の御心に従う意志を表す行為でもあります。ですから、祈りの一番大切なところは感謝です。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、私たちの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくださいます。神様の平安は人間が自ら作り出す事が出来ないもので、人間の理解を超えるものです。心配しないで、感謝をもって神様に祈る結果、神様からの祝福としてくるのが神様の平安なのです。神様の平安は世の常識と環境に左右されないものです。その神様の平安が、私たちの「心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。」とパウロは教えています。「守ってくれます」という表現は護衛しているという意味で、ローマの軍隊の兵士が歩哨する姿をえがく言葉に由来しています。神様の平安が私たちの心と思いを兵士が歩哨するのと同じようにしっかり守ってくださるのです。神様の平安は私たちをすべての心配と失望から守ってくださいます。神様の平安が、私たちの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくださる、それがいつも喜ぶ生活が出来る第三の秘訣です。

4.おわりに

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。

第一デサロニケ5章16節ー18節

お祈りします。恵み深い父なる神様。

私たちにはいつも喜ぶ生活が出来る十分な理由があります。それは私たちの国籍が天にあること、私たちに名前がいのちの書にしるされていること、神様の平安が、私たちの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくださるからです。そのために大切な事はエン・キュリオ(εν κυριω)、すなわち、私たちが主にあって生きる人生です。主イエス様の内に住み、ともに歩むのです。今日も、主にあって生きる人生になるように助けてください。全てのことを感謝し、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。