2015年6月28日主日礼拝
説教題:恐れおののいて自分の救いを達成してください
聖書:ピリピ2章12節ー18節
恵み深い父なる神様。
今日も感謝します。今から御言葉の時間を持ちます。聖霊様が私たちの内に働いてください。神様の御言葉を理解できるように導いてください。すべてのことを感謝し、イエス様の御名によって祈ります。アーメン。
私たちは前の説教で、イエス様が神様に従って十字架の道を歩んだその謙遜を学び、キリスト・イエスの心構えについて学びました。イエス様が私たちをすぐれた者だと認めたように私たちもお互いにへりくだって、自分よりもすぐれた者だと認める必要があることも学びました。今日も今日の御言葉を通して神様の御心が何かともに学びましょう。
1.恐れおののいて自分の救いの達成に。
パウロは12節ではピリピ教会の人々を「愛する人たち」と呼んでいます。それはパウロとピリピ教会の人々との親しい関係を表す言葉です。それは、パウロがピリピ教会の人々を牧会していたことを示す(しめす)言葉です。パウロはピリピ教会の人々がいつも神様に従順であったように、自分がいるときだけでなく、自分がいない今はなおさら、恐れおののいて自分の救いの達成に努めなさいと命じています。パウロはピリピ教会の人々がいつも従順であったことを誉めています。その姿で、自分がいるかどうかには関係なく、むしろいない時こそ、恐れおののいて自分の救いの達成に努めなさいと命じています。パウロは今、ピリピ教会の救われた聖徒たちに教えています。自分の救いの達成に努めなさいと。それはまだ、信じてない人々に向かって教えているのではないのです。私たちは教会で、救いは神様の一方的なめぐみで、私たちからは何もする必要もないし、努力すれば得られるものではないと教えられました。しかし、ここで、パウロは自分の救いの達成に努めなさいと、すなわち努力しなさいと教えています。この二つの救いに対する教えはどちらが正しいのでしょうか。この二つの教えは対立する教えなのでしょうか。実は、この二つの教えは両方とも正しいのです。それは、救いには罪から救われ霊的に生まれ変わる「新生」と呼ばれる救いと、生まれ変わったキリスト者がイエス様に似た者になるまで成長する「聖化」と呼ばれる救いがあるからです。パウロはピリピ教会の人々にイエス様に似た者になるまで成長する「聖化」と呼ばれる救いの達成に努めなさいと命じているのです。イエス様を信じたらそれで終わりではなく、その後は天の国に入る前にイエス様に似た者に(なる)まで成長する「聖化」のプロセスがあります。それは毎日の生活の中で、自分の救いを証しすること、すなわち、イエス様と共に歩み、生きることを意味します。その努めは個人として、また、教会の共同体と共に努めることを意味します。個人の救いの達成は教会の共同体の救いの達成につながっていますし、不可欠なものです。ですから、自分の信仰の成長とともに他の兄弟姉妹の信仰の成長をお互いに助け合う、励まし合うことはとても大切です。そのためにはまず、神様を敬い、信頼し、御心とご計画に従うことが必要です。日々神様に従うことによって、徐々に変えられるからです。それは私たちの一生の課題であり、長い戦いであります。それは難しい事、不可能な事だと思うかもしれませんが、しかし、それは可能なことなのです。その理由は13節に書かれています。13節で、「神はみこころのままに、あなたがたのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださるのです。」と書かれています。神様は意志が弱く、力の足りない私たちが自分で救いを達成することを天から待っておられる方ではなく、ともに働く方であると書かれています。その働きは無理矢理に人間の自由意志を無視して働かれるのではなく、人間の自由意志と能力を尊重しながらともに働いてくださいます。神様が人間とともに働かれるのです。しかも、その人間が私であり、あなたであるという素晴らしい事実が聖書に書いてあります。神様は救いに導いた者をそのまま何もしないで、放置されないのです。なぜならば、私たちは、ご自身の一人子であるイエス様が十字架で死んで代価を払ってまでご自身の愛を証明された、大切な存在であるからです。ご自身の栄光のためにも必ず、私たちが自分の救いの達成に至るまで、導いて下さいます。その働きは私たちの自由意志と能力とを伴うものです。これは人間の知識では全部理解出来ない神様の奥義であり、神秘的な働きであります。その働きの中に私たちは生きています。それが私たちの救いであり、福音なのです。
2.傷のない神の子ども
パウロは14節で、「すべてのことを、つぶやかず、疑(うたが)わずに行ないなさい。」と命じています。つぶやかず、疑わずに行なうことは不満を言ったり、悪い意図がある論争をしない事です。たいしたことではないのに不満を表したり、悪い意図をもって論争を起こす事をやめなさいとパウロは勧めています。当時、ピリピ教会の中で、たいしたことではないのに不和がありました。パウロは教会の奉仕はつぶやかず、疑わずに行なうよう勧めています。15節と16節にその理由が書かれています。「それは、あなたがたが、非難されるところのない純真(じゅんしん)な者となり、また、曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。そうすれば」、パウロは、「自分の努力したことがむだではなく、苦労したこともむだでなかったことを、キリストの日に誇ることができます。」と。パウロはキリスト者が曲がった邪悪な世代の中で非難されるところのない純真な、傷のない神の子どもとなり、いのちのみことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝く者になりなさいと教えています。キリスト者は世の光として召された者です。ですから、世の光として輝くことが使命です。それにふさわしく歩みなさいと教えています。そのためにはいのちのみことばをしっかり握る必要があります。みことばにしっかり立つ事が前提であります。なぜならば、みことばの光が私たちを通してこの世に輝くようになるからです。自分の力で何とかすることではありません。しかし、何もしないことの意味ではありません。それなりの努力と苦労があると書かれています。パウロは16節で、「そうすれば、私は、自分の努力したことがむだではなく、苦労したこともむだでなかったことを、キリストの日に誇ることができます。」と書いています。パウロはピリピ教会の人々が成長するために一生懸命に努力し、苦労したと書いています。それが「むだなことにはならないし、キリストの日に誇ることができます。」と書いています。パウロはこの世で、福音のために一生懸命に努力し、苦労したことを神様が覚えておられると教えています。それで、キリストの日に誇ることができると宣言しています。イエス様を信じる者は、この世において信仰のためにいろいろな苦労や懸命な努力をしなければならないのです。それはなかなか大変なことで、辛いことに会う時もあります。自分が一生懸命に努力し、苦労しても誰も分かってくれないし、むだな事をしているのではないかと思い落ち込んだりする時もあります。しかし、聖書は神様がそれらをひとつひとつ全部覚えておられ、キリストの日に誇ると教えています。
3.注ぎの供え物
パウロは17節と18節で、「たとい私が、あなたがたの信仰の供え物と礼拝とともに、注ぎの供え物となっても、私は喜びます。あなたがたすべてとともに喜びます。あなたがたも同じように喜んでください。私といっしょに喜んでください。」と何回も「喜んでください」と言っています。パウロは「たとい私が、あなたがたの信仰の供え物と礼拝とともに、注ぎの供え物となっても、私は喜びます。」と書いています。「注ぎの供え物」とは古代に神様を礼拝する時、祭壇のいけにえに葡萄酒を注ぐ行為を意味しました。それは、パウロが神様にいけにえとして自身を捧げることを意味します。すなわち、パウロは自分の殉教を暗示(あんじ)しています。パウロは近いうち、福音のために殉教する事がせまっていたにも関わらず、恐れること無く、教会のために前に進もうと献身しています。18節でパウロは自分の苦難と殉教がピリピ教会の人々に悲しみと挫折(ざせつ)をもたらすのでなく、喜びと希望になるよう勧めています。
4.終わりに
私たちの救いには、罪から救われ霊的に生まれ変わる「新生」と呼ばれる救いと、生まれ変わったキリスト者がイエス様に似た者にまで成長する「聖化」と呼ばれる救いとがありました。パウロはピリピ教会の人々に、イエス様に似た者になるまで成長する「聖化」と呼ばれる救いの達成に努めるよう命じました。イエス様を信じたらそれで終わりではなく、信じた後は天の国に入るまでイエス様に似た者に成長する「聖化」が必要でした。それは毎日の生活の中で、自分の救いを証しすることによって、日々新たに変えられる神秘的なものでした。病気が治ることや奇跡が起こる事より、日々イエス様によってイエス様に似た者に変えられる事は奇跡の中の奇跡でした。誰も、自分すら変えることができない頑強な自分の自我が日々変えられるからです。それは私たちがこの地に生きていても天の国の市民として生きている証拠になります。それは、日々、変わらない頑強な自分の自我と向き合うことでもあります。日々、頑強な自分の自我がイエス様の十字架とともに死んだことを覚えるために、イエス様を見上げるのです。イエス様を見上げて御心に従う日々が重なっていくことで、だんだん変えられていきます。それが恐れおののいて自分の救いの達成に努いる生き方です。それは個人として、また、教会の共同体として共に助け合い、励まし合うことで進みます。私たちの救いの達成のために教会の共同体は大切な役割をしています。さらに、最も大切な教えは、信仰の創造者であり完成者がイエス様であるということです。それは私たち一人一人の信仰の創造者も完成者もイエス様であることを意味します。神様がみこころのままに、私たちのうちに働いて志を立てさせ、事を行なわせてくださっています。私たちの救いは神様が始めたことであり、最後まで完成される方も神様であります。全てがめぐみの御業なのです。しかも、ちっぽけな私たちが努力した事も、苦労したことも全て覚えて、それを誇りに思ってくださる方が私たちの神様なのです。ですから、私たちはすべてのことを、つぶやかず、疑わずに行なうことが大切です。また、非難されるところのない純真な者となり、曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、いのちのみことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くのです。その道が険しい道になっても前に前に前進します。もう振り向かないのです。なぜならば、私たちは主からこのような確かな約束をもらっているからです。「そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。『見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」』黙示録21:3−4
お祈りします。恵み深い父なる神様。私たちが恐れおののいて自分の救いの達成に努めるように導いてください。日々イエス様に従って歩むイエス様に似た者に変わるように導いてください。曲がった邪悪な世の中にあって傷のない神の子どもとなり、いのちのみことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くように助けてください。その道が険しい道であっても私たちは前に進みます。なぜならば、主が私たちの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださるからです。全てのことを感謝し、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。