ようこそ。香芝めぐみ教会へ。

2015年6月7日主日礼拝
聖書:ピリピ人への手紙1:19−26
説教題:私にとっては、生きることはキリスト

1 二つの救い

私たちはパウロの伝道を応援したピリピ教会に送られたピリピ人への手紙を連続で学んでいます。パウロは18節を見ると「すると、どういうことになりますか。つまり、見せかけであろうとも、真実であろうとも、あらゆるしかたで、キリストが宣べ伝えられているのであって、このことを私は喜んでいます。そうです、今からも喜ぶことでしょう。」と告白しています。パウロは自分が獄中で死ぬかもしれない危機的な状態であっても、これからの自分の働きが終わりになっても、自分が攻撃され名誉に傷がつくことがあっても、肉体的は苦しい投獄にあり、精神的はねたむ人々から苦しみを受けていても、パウロが命をかけて愛するキリストが宣べ伝えられていることだけで、大いに喜んでいます。パウロの願いはそれしかないし、それで十分でありました。それぐらいキリストが宣べ伝えられることが大切でありました。19節では「このことが私の救いとなることを私は知っているからです。」と告白しています。このことは福音宣教に伴って、パウロに起きたすべてのことを意味します。パウロは自分の身の周りに起きている良いことも悪いこともすべてのことを通して益としてくださる神様の御業を信じていました。ですから、パウロは喜んでいます。それが、自分の救いとなることを知っていると言っています。その救いには二つの意味が含まれていると考えることが出来ます。一つはパウロが再びピリピの教会の人々との再会を期待している事です。その願いを込めたことで、獄中から解放され再びピリピの教会の人々と再会することが救いになるのです。もう一つは霊的な救いであります。パウロは23節で、「私は、その二つのものの間に板(いた)ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。」と言っているからです。すべてがピリピの教会の人々の祈りとイエス・キリストの御霊の助けによるものだと言っています。パウロは信仰による祈りの大切さを述べています。祈りの力を体験し、それを信じているパウロはそれに頼っていると告白しています。また、イエス・キリストの御霊の助けによる働きが不可欠であると言っています。聖霊様の助けと働きが信じる者にとって命の原理であり源であります。信じる者は御霊に導かれ力を受けるのです。パウロはその力を信じているのです。それが自分の救いに不可欠なものだといっています。

2 どんな場合にも、いつものように今も

20節で、パウロは「それは私の切なる祈りと願いにかなっています。すなわち、どんな場合にも恥じることなく、いつものように今も大胆に語って、生きるにも死ぬにも私の身によって、キリストがあがめられることです。」と言っています。このことは、パウロが裁判の結果がどうなるか関係なく、ただキリストのために生きたし、将来キリストの前に立つ者だから何一つ迷うことなく裁判の結果を待っていることを意味します。パウロは裁判の結果とは関係なく裁判場で、異邦人と多くの人々にキリストを宣べ伝えることを期待しています。どんな場合にも恥じることなく、いつものように今も大胆に語ることを願っています。パウロはその裁判が最後の宣教になるかもしれないことを考えていますが、それでもキリストを宣べ伝えることを考えています。今日の命を延ばすことより、永遠の命に価値を置いている信仰の行動であります。パウロはそれが、どんな場合にも恥じることなく、いつものように今も大胆に語ることを切に祈り、願っています。パウロの信仰の特徴はどんな場合にも恥じることがないことです。今、自分の命の危険を覚えるパウロはぶれることなく、どうしたらイエス様を証できるかと願っています。また、それがいつものように今も大胆に語ることを願っています。その時だけの特別なことではなく、すでに生活全般に身に着いていたことであり、今も行うことです。パウロの生き方を通して私たちも二つのことを学ぶことができます。それはどんな場合にもいつものように行うことです。先ず、どんな場合にもイエス様を証することを避けることや恥としてはいけないことです。しかし、私たちはイエス様を証することで、パウロのように命の危険を感じることは起こりません。ただ、この話は言いづらい、この話をすると相手が私をどう思うか等と戸惑うことがほとんどであります。福音はすばらしいことで、良いことでも自分は恥を感じたくない、自分は損したくないという自己中心的な、なかなか変えられない姿があります。それはパウロを始め、初代教会の聖徒たちや多くの信仰の先輩たちの生き方と大きな違いです。彼らが受けた福音は私たちの福音と違うものであり、もっと強力なものでしたでしょうか。それは違います。私たちの福音は彼らが受けた福音と全く同じものであり、ある意味、今日の私たちが受け継いだ福音の方がもっと力強いもので、彼らも知らないことを私たちは知ることができます。何が問題なのでしょうか。それは私たちが自己中心からイエス様中心にならないことが問題なのです。イエス様を信じてもまだ、自分が中心、自分が主になっているのです。自分が罪の奴隷からイエス様の自由ある奴隷に変わったことを知りも認めもしないからです。私たちは主人が変わりました。悪魔の主人からイエス様が主人になったのです。しかし、主人になるイエス様の代わりに自分が主人になっているのです。ですから、自分の身の安全、自分のことが一番になっています。私たちは自分のすべての時間、健康、家族、お金、賜、あらゆることの所有権がイエス様にあることを認めなければなりません。それがイエス様が主人になることであり、イエス様に満たされ支配されることを意味します。そうなると自然にパウロと同じく、いつものように証する人になれます。パウロはその日のために特別に練習し、準備したことはありませんでした。彼の生き方がそうだったのです。私たちも同じです。いつか、機会があればではなく、今そのように生きるかどうかです。いつか出来るかどうかは誰も分からないし、出来ないと思った方が良いでしょう。大切なことは今の生活の瞬間瞬間にイエス様の証人として生きることです。それらものが日々重なっていると危機的な状態であり、大事な時さえいつものようにイエス様の証人として生きることが出来るのです。そうでないとイエス様を知らないと否認する過ちが起きてしまいます。日々の生き方が大切です。日曜日だけでは不十分です。

3 生きるにも死ぬにも

続けてみると21節で「パウロは私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です。」と告白しています。生きることはキリストとはキリストのために生きる生き方ではありません。キリストが生き方の救いという意味でもありません。それは生き方そのものがキリストであることを意味します。キリスト者がキリストと一つになっていることを意味します。その生き方そのものがキリストによって支配され、真実、愛、希望、従順、宣べ伝えることなどが生き方、すなわち生活の中で生かされ、それらが豊かに現されることを意味します。パウロが生きているのですが、その生き方はイエス様が生きている状態です。パウロの生き方を通してキリストが現れているのです。それはパウロだから、パウロだけの特別な、特権ではありません。イエス様を信じる者はだれでも出来ることです。いや、それが本来の私たちの生き方です。だれでも神様を見たこともないし、見ることが出来ません。しかし、イエス様を見た人は神様を見たのです。ですから、私たちがキリストに支配されることによって、私たちに内在するイエス様の姿が現されます。それで、人々がそれを見て神様を見、救いに導かれるのです。パウロは続けて「死ぬことも益です。」と告白しています。パウロにとって死は怖く、避けたいものではありませんでした。パウロの死は彼の生涯の完成であり、愛するイエス様に会いに行くことでした。そこは永遠の冠と慰めが待っている栄光の場であります。そこでは、イエス様と永遠に祝福の中で生きるのです。この世の辛く、イエス様に栄光を帰(き)すことや誉れを捧げることを妨げたものからの解放でもありました。パウロには確かな復活と神の国に対する希望がありました。ですから、死ぬことも益になったのです。私たちの告白も同じ告白になるべきです。
皆さんは本当に心から同じ告白をしていますか。生きることはキリスト、死ぬことも益ですと。もしかしたら、そこまでは言えないと。もうちょっと待ってくださいやることがあるからと言っていませんか。それは神の国に対する希望が足りないからです。それは復活の希望が足りないからです。それはこの世で自分の手で握っているものが多いからです。それはこの世で自分の力でやりたい、やったことが多いからです。あるいは他の福音、あるいは歪んでいる福音を信じているからです。十字架の許しのめぐみによる悔い改めと神の国に対する希望、すなわち復活の希望がない信仰は危険です。信仰が前に進まないことは止まっていることではありません。罪に腐っている状態なのです。なぜならば、私たちの肉は生きており、信仰は生き物だからです。ですから、イエス様に日々、瞬間瞬間頼らないことは罪に支配されることになります。残念ですが、信仰には中間地点はありません。黒か白か二つしかないです。

4 結論

パウロは獄中であっても、世を去ってキリストとともにいることが、はるかにまさっていると思いました。しかし、もう一度ピリピ教会に行くことも望みました。25節と26節でパウロがもう一度ピリピ教会の人々に会うことを確信しています。その確かな理由は記されていないのでわかりませんが、パウロにとって生きるにも死ぬにもすべてが主の御手にあることを確信しています。その確信があるからこそどんな場合にも、いつものように今も前に進むことが出来るのです。私たちも自分中心の生き方から悔い改め、すべての領域において神様の主権を認め、イエス様が主人であることを告白しましょう。朝起きる時から夜寝ぬ時まで「主よ。今も導いて下さい。私は主のものです。主が私の唇から心、そして、すべてを支配してください。そして私の代わりに生きて下さい。イエス様の姿が私の生活に現れるように。」と祈りましょう。 そして、その祈りにより生活、すなわち生き方が整えられ、「どんな場合にも恥じることなく、いつものように今も大胆に語って、生きるにも死ぬにも私の身によって、キリストがあがめられることです。私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です。」と私たちも告白することが本当の自分の告白になるでしょう。お祈りします。