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2015年5月24日主日礼拝説教
聖書朗読 : ピリピ1:12-18

説教題 : 「キリストが述べ伝えられている。

序)私たちはピリピ人への手紙を連続して学んでいます。先週はパウルの祈りをとおしてクリスチャンの生き方を学びました。今日はパウロの熱い宣教での志をともに学びましょう。

1 パウロの投獄

パウロはキリストの心で愛しているピリピ教会の人々に12節から自分に起こっていることを伝えています。それは、ローマで起こっている福音の働きに関する報告です。パウロは A.D. 61-63年まで、ローマで投獄され裁判を受けました。この手紙はA.D. 62-63年の間に書かれたと考えられています。パウロの身に起こった事とは福音を宣べ伝えている途中、捕まえられ牢に入れられたことであり、裁判の中で福音を弁護(べんご)したことも含まれます。パウロはその出来ごとによってかえって福音を前進させることになったと報告しています。
パウロが捕まり、牢に入れられることによって福音の働きが中止され、大変なことになりました。しかし、それは神様のご計画の下に起こったことで、それによって福音が広がるチャンスになりました。批難と困難の中でも続けて前に進むことによって、獄中であるにも関わらず、かえって異邦人世界に福音が広がるチャンスになりました。私たちも神様に従って歩む中、思った道ではなく、大変な道に入ることがあります。

これで終わだと思ったり、神様の御心はどこにありますかと叫ぶ時があります。しかし、それこそが神様が備えられた新しい道であります。神様の御手の業を信じて、批難と困難の中でも続けて前に進むことが大切です。その進む道の中で神様が備えられたチャンスを得ることが出来ます。それによって神の国が広がるのです。
パウロは12節で自分がキリストのゆえに捕らえられ牢に入れられるようになったと言っています。パウロはローマの監獄に入ることは政治的な理由からではなく、ただキリストのゆえに起こったことであるとはっきり言っています。それで、キリストが最高の法廷で弁明されるようになりました。14節を見ると多くの人々がパウロの投獄により、人々は主にあって確信を与えられ、恐れることなく、ますます大胆に神のことばを語るようになりました。

ローマのキリスト者たちはパウロの投獄によって、多くの人々からの迫害と苦難を受けましたが、恐れずますます大胆に神のことばを宣べ伝えました。多くの危険が続く中で、勇気を新たにし、神様の御言葉を宣伝えたのです。本当に不思議な福音の力です。危険の中でさらに力強くなりました。それが私たちがいただいた福音の力です。
しかし、残念なことに私たちの生き方はそうではありません。危険や苦難は避けたいし、身の安全が第一です。また、福音のために損害を受けるより、祝福を貰ってこの世で盛ることが私たちの福音ではないでしょうか。もし、皆さんが信じている福音がそうだったら、別の福音を信じていることになるかもしれません。気をつけるべきです。
イエス様を信じる者には必ず自分の十字架があり、福音のために払う代価があります。それがないと思っているなら、あるいはそれを避けてこの世の安全と安楽だけを求めるなら、それは危険な信仰の状態であり、別の福音を信じていることになります。私たちはどんな時でも、危険の中でも勇気を出して福音を宣べ伝えなければなりません。

2 二つのグループ

パウロが投獄されたことによりローマ教会の中では二つのグループが出来ました。一つ目のグループはねたみや争いをもってキリストを宣べ伝える者であり、二つ目のグループは善意をもって宣べ伝える者でした。一つ目のグループであるねたみや争いをもってキリストを宣べ伝える者とは、パウロが投獄されたことを見、その機会に、勇気を出して福音を宣べ伝える者の中、パウロに対し個人的なねたみを持った人々でした。彼らは17節を見ると純真な動機からではなく、党派心(とうはしん)をもって、投獄されているパウロをさらに苦しめるつもりだったことが分かります。投獄されているパウロには名誉と活動に問題が生じました。それで、ねたみを持った人々が、パウロがいないすきに自分の名誉と名を上げるために働いたのでした。
「党派心」の原語的な意味は「従業員」の言葉に由来し、「ある目的のためにお金を貰って働く人」を指す言葉です。ですから、自分の使命のために働くことは、献身の心からではなく、自分の目的と野望を持って自分の利益のために働くことを意味します。一つ目のグループがキリストを宣べ伝えたのは、自分の名声を得るための利己的な野望のための働きでした。また、パウロを倒すための悪い心もあったのです。二つ目のグループはパウロが宣べ伝えた福音をよく理解して、他の人々と良い関係を持ちながら福音の働きを進めた人々です。彼らはこの働きが神様から召された働きであることをはっきり認識した者であり、パウロの働きを積極的に応援した者です。

3 キリストが宣べ伝えられている

 パウロの投獄によってローマ教会の中に生まれた二つのグループの働きは、一つはパウロをねたむ働きであり、もう一つはパウロの働きをさらに進める働きでした。一つのグループはパウロが投獄された苦難を自分の名誉と利益のために使うグループで、パウロに対する悪い心をもって働きました。
しかし、パウロは18節を見ると「すると、どういうことになりますか。つまり、見せかけであろうとも、真実であろうとも、あらゆるしかたで、キリストが宣べ伝えられているのであって、このことを私は喜んでいます。そうです、今からも喜ぶことでしょう。」と告白しています。

パウロは自分が滅びに行き、自分の働きが弱くなっても、自分が攻撃され名誉に傷がつくことがあっても、肉体的には苦しい投獄にあり、精神的にはねたむ人々から苦しみを受けていても、パウロは大いに喜んでいます。それはパウロが命がけで愛しているキリストが宣べ伝えられているからです。

パウロはキリストを信じてない者からの攻撃より、同じ信仰を持っている仲間からの攻撃の方がもっと苦しく傷ついたかもしれません。しかし、パウロは「同じ信仰なのに、しかも自分の利益と名誉とお金のために福音を売っている者がいるなんて!どんでもないことだ、許されない!私がこの投獄から出たらあなたたちは覚悟した方がいいでしょう。」などとは言っていません。

パウロにとっては見せかけであろうとも、真実であろうとも、あらゆるしかたで、キリストが宣べ伝えられている、それが一番大切なことでありました。もちろん、自分のために福音を利用する見せかけを良しとしていません。しかし、福音、そのものが歪んだことはなかったのです。

4 結論

パウロが投獄されることによって、多くの人々は勇気を出して福音を宣べ伝えるようになりました。彼らは苦難と苦しみの中に働いておられる神様の摂理を見ることが出来ました。それで、彼らは命がけの信仰者に変わりました。キリスト者は苦難と苦しみの中で神様の御姿を見ることが出来る者です。福音のために苦難と苦しみを経験していますか。その苦難と苦しみの中に神様の働きがあります。神様はすべてのものを善にしてくださる方です。私たちの仕事はその神様を信頼することです。私たちはイエス様に従い歩む中で、様々な働き奉仕をします。

しかし、私たちはイエスの名で色んな過ちをしてしまいます。その中には純粋な心で働き、その働きが教会に益のなることもあります。純粋な心から始まった働きが自分のための働きに変わり、教会の指導者になろうとする時があるのです。ねたみからする時です。それは本来はよろしいことではありません。人の弱さによって起こる問題です。その時、考えるべき大切な事は福音そのものが保たれているかどうかです。残念なことに現代起きている問題はパウロが悩んだ問題と少し違います。パウロの時代は問題があってもキリストを宣べ伝えた内容は確かなものでした。

しかし、今日の問題は福音そのものが歪んでいます。また、福音を自分の名誉や利益、お金のために使うこともあります。パウロは聖書の他のところで、教会の中に別の福音を持ち込む人々を厳しく警告しています。ですから、私たちは先ず正しい福音にしっかり立たなければなりません。それは聖書を良く知り、聖書に書いていないことや間違った異端の教えを受け入れないことです。

さらに、主にある兄弟と調和を保ちながら、愛をもって主に仕えるように兄弟たちに仕えることも大切です。それはいつも主にある兄弟たちを自分よりまさっていると思う謙遜な心です。軽薄に兄弟たちを教えたりしないことです。教えるなら福音そのものを宣べ伝えることです。自分が多く献金をするから、御言葉をよく分かっているから、信仰生活が長いから、他の人より祈りをたくさんするから等といって軽薄に兄弟たちを教えることは避けるべきです。ですから私たちは他の人の救いを心配するより自分の救いを心配することが先になります。もし、別の福音を自分の益ために伝えたことがあるなら悔い改めましょう。神様は今日も私たちを通してキリストが宣べ伝えられることを望んでおられます。また、私たちの弱さによる失敗や利己的な動機も用いてくださいます。

しかし、私たちは福音そのものをゆがめたり、変えたりすることは気つけるべきです。パウロがピリピ教会の人々に大きな喜びを感じたように、福音を宣べ伝える働きを通して、神様に私たちは大きな喜びを捧げることが出来ます。ですから、どんな時でも、苦しみ困難の中でも、キリストを宣べ伝えながら前に進みましょう。お祈りします。