2015年7月5日主日礼拝
説教題:テモテとエパフロデト
聖書:ピリピ2章19節ー30節
恵み深い父なる神様。 今日も感謝します。今から御言葉の時間を持ちます。聖霊様が私たちの内に働いてください。神様の御言葉を理解できるように導いてください。すべてのことを感謝し、イエス様の御名によって祈ります。アーメン。
私たちは前の説教で、私たちの救いは二つの概念があって、それは新生と聖化だと学びました。パウロは私たちが恐れおののいて自分の救いの達成に努めるように命じました。それは私たちが日々イエス様に従い歩み、イエス様に似た者に変えられることを意味します。また、曲がった邪悪なこの時代の中にあって傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くようになるのが私たちの使命であることも学びました。今日はパウロの伝道に大切な存在であり、仲間である二人の人物について学びます。その名はテモテとエパフロデトです。今日も今日の御言葉を通して神様の御心が何かともに学びましょう。
1.テモテ
パウロは18節で自分の殉教の可能性があるにも関わらず喜んでいると告白しています。どんな時でもキリストのためならそれが死であっても感謝するべきであり、喜びであると告白しています。パウロはその告白後、19節からはテモテについて語っています。パウロは早くテモテをピリピ教会に送りたい、主イエスにあって望んでいると書いています。それには二つの目的があります。一つ目はテモテがピリピ教会の人々にパウロの近況を伝えることによってピリピ教会の人々が慰めを得ることです。もう一つの目的はテモテがパウロのところに戻った時、ピリピ教会の人々のことをパウロも聞いて慰めを受けることです。パウロとピリピ教会の人々とは親しい関係であり、お互いに慰めを与え合う関係でした。その間にテモテがいたのです。ここでテモテについて少し紹介したいと思います。テモテは後にエペソ教会の責任を持つ若い牧会者になります。彼のお父さんはギリシャ人で、お母さんはユダヤ人キリスト者でした。彼はルステラ出身で、幼い時からお母さんとお祖母さんから聖書を習いました。彼は少し体が弱く、消極的な性格でした。しかし、彼はパウロの立派な弁論者でありメッセンジャーでした。彼とパウロとの初めての出会いは第一回伝道旅行でパウロがルステラを訪問した時でした。パウロは第二回伝道旅行の途中、再びルステラを訪問した時にともに宣教旅行をすることを誘いました。テモテはパウロがマケドニヤとアカヤで福音を宣べ伝える時に手伝いました。パウロが3年間エペソで働いた時も共にいました。テモテはパウロと共にエペソからマケドニヤ、コリントへ、また、マケドニヤから小アジアへと旅をしました。テモテはパウロがローマで最初に牢に入れられた時も共にいました。そこから解放された時も共に旅をしました。最終的にテモテはエペソに滞在し、エペソにある教会を牧会しました。パウロにとってテモテは生死と苦楽を共にしたかけがえのない存在でした。ですから、パウロは第一テモテ1章2節で「信仰による真実のわが子テモテ」と呼んでいます。20節では「テモテのように私と同じ心になって、真実にあなたがたのことを心配している者は、ほかにだれもいないからです。」と紹介しています。「同じ心」と訳されている言葉は詩篇55章13節が七十人訳に翻訳される時に使われた言葉で、その意味は「私の親友」です。ですから、この言葉はパウロの周りにテモテのようにし親密で、ケアしてくれる人はテモテしかいないという意味とパウロの考えと意志を同じようにしている者はテモテしか無いという意味です。また、パウロはピリピ教会の事情をよく知っている者もテモテだと語っています。21節では「だれもみな自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めてはいません。」と叱っています。パウロの周りの人々の中でもイエス様のために生きることより自分自身のことでいっぱいになった人がいました。彼らは自分自身の問題ばかり心配し、考えるので神様のために献身することや犠牲を払うことは遠い話になっています。それは今日も同じです。目の前の問題に心が捕われて、神様のために生きることは理想的な話で、他の人がやることだと思っている人がいます。パウロはそのような生き方を叱っています。続けて、パウロはテモテのりっぱな働きぶりを誉めて、「子が父に仕えるようにして、彼は私といっしょに福音に奉仕して来ました。」と告白しています。テモテは何度もパウロが困った時、自分が危険や困難があるにも関わらず、共に旅をし、宣教の働きを続けてきました。この働きには多くの危険や困難がありましたから他の人は途中でやめたり、帰ったりしましたが、テモテは最後までパウロとともに働きました。若い働き人にも関わらず、彼は忠実でした。それをパウロは誉めています。パウロはテモテをピリピ教会に派遣するにあたり三つの推薦(すいせん)の言葉を述べました。それはピリピ教会の人々もテモテのりっぱな働きぶりを知っていたからです。また、子が父に仕えるようにパウロとテモテは主にあって本当に親しい関係であったからです。最後に、テモテが第二回伝道旅行の時からパウロとともに福音に奉仕したからです。テモテはパウロにとって一番大切な存在でしたが、ピリピ教会にとっても大切な存在だったので彼を派遣したいと思っていました。しかし、23節を見るとパウロの裁判の結果を待ち、その後に彼を派遣することを望んでいます。また、24節ではパウロ自身も解放され、ピリピに行くことができることを主にあって確信していると告白しています。彼の確信は主にあって確信することです。それは、パウロのこれからの未来の計画は主の導きと主権にあり、それに委ねているという意味です。自分の力に頼らず、イエス様に徹底的に従った生き方から出る告白であります。パウロもテモテも自分の未来を今の現実にとらわれず、主の御心が何かを常に求めて生きていました。どんなに苦しい結果が待っているとしても、その心の喜びと希望は消えることはありませんでした。むしろさらにそれがどんどん強くなりました。それがまさに天の国の市民の生き方であり、自由ある生き方です。私たちも自分の現実に捕られている生活から解放され、自分の今の問題から未来の計画まで主の導きと主権にあることを告白し、主に委ねる訓練をしなければなりません。
2.エパフロデト
パウロは25節からエパフロデトについて紹介しています。彼をパウロは私の兄弟、同労者、戦友、またあなたがたの使者として私の窮乏のときに仕えてくれた人エパフロデトだと紹介しています。彼はピリピの人で、パウロが獄中に入れられたことを知ったピリピ教会からパウロのための献金をローマまで運ぶために派遣された人です。彼はローマへの旅行途中で病気になりましたが、癒されました。パウロは彼を同労者と紹介していますが、それによりピリピ教会を立てるためにパウロとともに働いたことが暗示されています。また、戦友という言葉は福音のために戦う働き人で、その苦難が今も続いているという意味です。彼はパウロの働きのために色色な面で仕える者になりました。しかし、パウロは彼をピリピ教会に送る必要がありました。それは彼がピリピ教会のことを慕い求めており、また、自分の病気のことがピリピ教会に伝わったことを気にしていたからです。パウロは27節で「彼は死ぬほどの病気にかかりましたが、神は彼をあわれんでくださいました。彼ばかりでなく私をもあわれんで、私にとって悲しみに悲しみが重なることのないようにしてくださいました。」と語っています。それはエパフロデトが死ぬほどの病気から奇跡的に治ったことであり、それは本人にも、パウロ自身にも、またピリピ教会にも慰めと喜びになりました。パウロにとって、自分が獄中にあることと大切な同労者あるエパフロデトが病気で倒れることは悲しみに悲しみが重なることでした。しかし、神様は福音のために働く人々を見守り、祝福してくださいました。その喜びと神様の御業を証するためにパウロはエパフロデトをピリピ教会に大急ぎで送っています。それは、悲しみと挫折になっているピリピ教会の人々がエパフロデトに再び合うことで元気を取り戻すためでした。それはパウロ自身のためであり、心配しているピリピ教会のためでもありました。パウロは29節で「喜びにあふれて、主にあって、彼を迎えてください。また、彼のような人々には尊敬を払いなさい。」と勧めています。その理由の一つは彼がキリストの仕事のために、いのちの危険を冒して死ぬばかりになったからです。彼はローマで獄中にあったパウロを助けるために処刑される恐れがあるにも関わらず恐れること無く、むしろ自分が病気になるまでパウロの為に働き仕えました。二つ目の理由は彼がピリピ教会やパウロの宣教の働きのために派遣された人であったからです。ピリピ教会が祈りをもって積極的にパウロの宣教を助けるために派遣したエパフロデトがその働きを十分にし、今帰ることになっているので喜びを持って彼を迎えるべきであり、十分な尊敬を払うべきなのです。
3.おわりに
パウロの宣教の働きには多くの人々の祈りと助けがありました。その中でもテモテとエパフロデトという人はかけがえの無い大切な存在であり、同労者であり、仲間でした。今日も多くの宣教の働きにはテモテとエパフロデトのような自分の問題より神の国のために生きることが最優先である人が必要です。神様はそのような人々を祝福し、そのような人々を用いて神様の国を前進させています。深刻な自己愛の時代に生きている私たちは自己中心の生き方を悔い改め、神様が最優先になる生き方に変えられるように祈りましょう。テモテとエパフロデトのように大きな危険と損害、そして死ぬほどの病気にかかるまで犠牲を払うことになるかも知れませんが、私たちは神様の前に忠実な者になって、前進しましょう。その道は必ず主が祝福してくださいます。マルコの福音書10:29−30節に主イエス様が私たちにこのような約束をしてくださったからです。
イエスは言われた。「まことに、あなたがたに告げます。わたしのために、また福音のために、家、兄弟、姉妹、母、父、子、畑を捨てた者で、その百倍を受けない者はありません。今のこの時代には、家、兄弟、姉妹、母、子、畑を迫害の中で受け、後の世では永遠のいのちを受けます。」
お祈りします。恵み深い父なる神様。
私たちは自己中心の生き方を悔い改め、神様が最優先になる生き方に変えられるように導いてください。何があっても、どんな時でも神様の前に忠実な者になれますように祝福してください。全てのことを感謝し、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。