ようこそ。香芝めぐみ教会へ。

2015年7月26日主日礼拝
説教題:「私を強くしてくださる方によって」
聖書:ピリピ4章8節ー23節

恵み深い父なる神様。
今日も感謝します。今から御言葉の時間を持ちます。聖霊様が私たちの内に働いてください。神様の御言葉を理解できるように導いてください。すべてのことを感謝し、イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

私たちは前の説教で、私たちにはいつも喜ぶ生活が出来る十分な理由がある事を学びました。それは私たちの国籍が天にあること、私たちに名前がいのちの書にしるされていること、神様の平安が、私たちの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくださるという事でした。そのために大切なのはエン・キュリオ(εν κυριω)、すなわち、私たちが主にあって生きる人生でした。また、主イエス様の内に住み、ともに歩んだパウロの生き方を通して目標を目指して生きる人生についても学びました。

今日は私たちを強くしてくださる方によって生きる人生について学びます。様々な困難がある人生の中で、力強く生きる人生の秘訣は何でしょうか。今日も今日の御言葉を通して神様の御心をともに学びましょう。

1 聖徒たちの八つの徳目

いよいよ手紙は最後の話に進みます。8節でパウロは「最後に、兄弟たち。すべての真実なこと、すべての誉れあること、すべての正しいこと、すべての清いこと、すべての愛すべきこと、すべての評判の良いこと、そのほか徳と言われること、称賛に値することがあるならば、そのようなことに心を留めなさい。」と命じています。パウロは聖徒たちがいつも、道徳的にも霊的にも卓越している者のように考え、行動する事を勧めています。この節では聖徒たちの精神的な領域において肝に銘じておく必要がある八つの徳目を教えています。一は真実なことです。すなわちそれは偽りに反対になるもので、元々神様の属性であり信じる者の特徴であります。聖徒は偽りの姿ではなく、常に真実な姿を保つ必要があります。第二は誉れあることです。特に、それは教会の指導者に求められるもので、この言葉は尊敬を払うことが出来るという意味です。ですからこの言葉は敬虔という言葉で翻訳が出来ます。聖徒は敬虔な生活と姿を保つ必要があります。第三は正しいことです。それは神様から正しいと認められるのです。自ら正しいと主張するのではなく、神様から、神様によって正しいと認められているのが聖徒です。第四は清いことです。それは道徳的清さを強調することで、厳しい意味では純潔を意味します。聖徒は世の汚れから自分の守り、清い生活を保つ必要があります。第五は愛すべきことです。この言葉は楽しくって、愉快で、愛すべきという意味です。それは聖徒が希望を持って感謝を持って喜ぶ姿を表すのです。第六は評判の良いことです。聖徒は教会の人々にもこの世の人々にも評判の良い生活が求められます。第七は徳と言われることです。この言葉は丁寧な、品がある、優雅であるという意味です。聖徒は王国の民のように品がある者のように生きる意味で、道徳的に優れた存在となるのです。第八は称賛に値するという事です。それは道徳的に認められほめられる価値がある事を意味します。
聖徒はその生活が模範になるので周りの人々から認められほめられる存在になるです。パウロはただ、霊的なことを話すのではなく、ほぼ道徳的なことを話しています。それは信仰があるからと言って、生活がめちゃくちゃにならないためであり、信仰の成長は生活にも影響を及ぼすからです。信仰と生活は別々ではなく、よいバランスを持つ必要があります。沢山教会で奉仕し、色んなことが出来る熱心な人であっても生活の中で色々な問題を起こす人は証になりませんし、自分の生活を通して自分が未熟な信仰である事を表してしまいます。キリストの尊い血で贖われた私たちは教会の生活以外に個人と社会の生活の中でも証を立てる生活が求められています。それは一般的なレベルではなく、高いレベルです。それはイエス様に似る者になるまでです。ですから、この世の人々と全く違う生き方が求められています。この世の人々は自分と全く同じであるのに全く違う人生を生きる人々に心が打たれ、イエス様について関心を持つようになり導かれるのです。それが私たちの証であり、伝道です。私たちは自分の生活が証を立てる生活になるために祈らなければなりません。なぜならば、それは自分の力で出来ないからです。それはイエス様と日々歩む生活を通してパウロが教えている八つの徳目が自然に現れるものであるからです。私たちがイエス様に近づくことによって人々が私たちから離れるのではなく、どんどん近づくのです。それで、神様の国が広がるのです。9節では「あなたがたが私から学び、受け、聞き、また見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神があなたがたとともにいてくださいます。」と教えています。パウロは8節で聖徒たちの八つの徳目を教え、それを自分たちで何とかしなさいと言っていません。パウロは自分から学び、受け、聞き、また見たことを実行しなさいと言っています。それは徹底的に自ら実行し、模範になった事を意味します。人に何かを教える時、その人が学び、受け、聞くようにする事はある程度は難しい問題ではありませんが、それを自分の生活を通して見せるのは簡単な問題ではありません。しかし、教会の指導者、あるいは人に神様のみことばを教える者達は教えるだけでその役割は満たされません。自分が教えたものを自分の生活を通して見せなければなりません。それが教会の指導者、あるいは人に神様のみことばを教える者に求めらています。イエス様はそのように弟子たちを教え模範になって下さいました。それはイエス様がパウロのように私たちも自分を見習うよう望んでおられるからです。その生き方を習う者には平和の神がともにいってくださるという事をパウロは教えています。

2 私を強くしてくださる方によって

10節からパウロはピリピ教会からエパフロデトを通して送られた贈り物を感謝しています。ピリピ教会はパウロを助けるため様々な機会を持つように努力しましたが、なかなか出来ませんでした。やっとそれが実現され喜んでいます。パウロは困難な状況にありましたが、その困難を乗り越える事が目的や主な関心でありませんでした。彼は「どんな境遇にあっても満ち足りることを学びました」と告白しています。それは彼が直面している窮乏を宿命だと受け入れ断念したのではありません。むしろどんな状況であっても心配と悩みの状態を超然した状態だった事を意味します。その告白が出来る理由はパウロがキリストによるめぐみと平安をもらっていたからです。そのめぐみと平安によって外面的な条件に左右されず、満ち足らせることが出来ました。パウロは「あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。」と告白しています。それは特別な時も平常な時も、どんな時でもその状態などに左右されずに福音の働きに前進する事を出来るようにしました。それは生きておられるキリストの力によるから可能なのでした。パウロは、貧しさの中にいる道も知っており、豊かさの中にいる道も知っています。また、飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ていますと告白しています。秘訣を心得ている意味は秘訣を伝授されたという意味です。パウロはその生活の中でキリストに頼り、自ら満足し感謝の生活を送る秘訣を神様から学んだと告白しています。彼はどんな環境も乗り越えることが出来る秘訣を13節で教えています。その力はただキリストによるのですと告白しています。パウロの働きと力の源はキリストです。彼はキリストと命ある関係と交わりを持つ力で生きているのです。パウロは彼の学歴や背景に頼っても十分に生きられたでしょうし、もっと楽に生きることも出来たでしょう。大きな家で、お金と生活に困らない生活をする十分な力がありました。しかし、パウロはそれらに頼るのではなく、自らすべてを捨ててイエス様に頼る人生を歩んでいます。パウロの苦しみと貧しさは自ら選んだ道であります。仕方ないから貧しくなったのではありません。彼がイエス様のために生きる人生を選択したからそのようになったのです。パウロはイエス様のために人間的に良いものをすべて捨てました。今パウロがもらっているのは大変厳しい状態であります。この世の富も名誉も全くありませんし、誰にも分かってもらえませんし、むしろ迫害を受ける一方で、教会からの援助もめったにない生活でした。ですから、神様がそれを覚え、祝福しておられるのです。それは物質的には恵まれませんでしたが、霊的に祝福され、どんな時にも満足し、感謝が出来る人生を過ごしました。私たちもイエス様のために生きる人生においては、時に物質面や色々な面で恵まれず、苦しみがあり、貧しい時が来るかもしれません。しかし、そのような時は神様からの特別な希望とめぐみが来ます。この世にはない平安が来ます。明日、食べ物が無くっても感謝が出来るのです。それは今日を生かしてくださる神様に感謝を捧げるからです。それが飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ている事になります。「私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。」イエス様に頼る人生はそのようなものです。それが真の福音の力であり秘密です。

3.香ばしいかおり

パウロは14節から「それにしても、あなたがたは、よく私と困難を分け合ってくれました。」とピリピ教会の人々からの支援が必要ないと誤解されないように話しています。パウロはピリピ教会の人々からの支援が必要であり、それがとても大切だと言っています。また、最も大切なのはそのこころ構えであると言っています。今から10年前、ピリピへの働きを終え、マケドニヤに離れる時にはピリピの教会の人たちだけが支援しました。その後、他の教会も支援するようになりました。ですから、一番大変な時に助けてくれたピリピ教会はパウロにとって特別な存在であります。パウロは「私は贈り物を求めているのではありません。私のほしいのは、あなたがたの収支を償わせて余りある霊的祝福なのです。」と言っています。パウロはピリピ教会の人々が捧げるめぐみを体験し、単なる物質的な支援に留まらず、霊的に成長する事を求めています。彼らの贈り物は一般的なプレゼントではなく、生活に必要な支援でした。生活の必要を満たすために自ら働いたパウロでありますが、福音に専念するために支援が必要でした。パウロは15節で「私の働きのために、物をやり取りしてくれた教会は、」と話しているやり取りしたという言葉には取引口座という商業的な言葉を使っています。それは福音のために働く者は教会から支援をもらうのは当然である事を表す言葉です。また、17節では「私のほしいのは、あなたがたの収支を償わせて余りある霊的祝福なのです。」と言っています。ここで使っている言葉も商業的な言葉で、ピリピ教会の人々からの物質的な支援は信用帳簿に書かれる利益金の意味です。それは霊的な投資を意味します。パウロは彼らが霊的に投資した以上に霊的な成長と実を結ぶのを望んでいます。パウロは、「すべての物を受けて、満ちあふれています。エパフロデトからあなたがたの贈り物を受けたので、満ち足りています。それは香ばしいかおりであって、神が喜んで受けてくださる供え物です。」と言っています。ピリピ教会の人々から送ってもらったものはただの支援ではなく、神様が喜んで受けてくださる供え物であり、香ばしいかおりであると言っています。パウロへの支援はパウロのためのものであり、神様に捧げるものであると言っています。「また、私の神は、キリスト・イエスにあるご自身の栄光の富をもって、あなたがたの必要をすべて満たしてくださいます。」と言っています。パウロのすべての必要を満たしてくださった神様がピリピ教会の人々の必要を満たしてくださる事を確信しています。神様がパウロの代わりに報いてくださるのです。すべての宣教の御業を導く方は神様です。最後は、「主イエス・キリストの恵みが、あなたがたの霊とともにありますように。」とこの手紙を終えています。

4.おわりに

皆さんは何を頼り、どこから力をもらって生活していますか。健康ですか。お金ですか。学歴ですか。会社ですか。子供ですか。家族ですか。パウロのようにイエス様が強くしてくださる方であり、その方によって何でも出来ると告白しましょう。また、今の自分の生活と環境に感謝していますか。不満で怒っていますか。不安ですか。もっと上の生活、もっと快適な生活、もっと広い家、十分なお金、等でイライラしていませんか。
今あるものに感謝しましょう。今日のめぐみに感謝しましょう。明日は明日のめぐみがあります。今日、私に与えられているものと生活に感謝し、神様の国のために何が出来るか考えましょう。また、ピリピ教会の人々のように主のために、神様の国のために献身し、投資しましょう。それは神様が喜んで受けてくださる供え物であり、香ばしいかおりであるからです。

最後にピリピ人への手紙1書20節ー21節を読み、ピリピ人への手紙の講解説教を終わりにします。

それは私の切なる祈りと願いにかなっています。すなわち、どんな場合にも恥じることなく、いつものように今も大胆に語って、生きるにも死ぬにも私の身によって、キリストがあがめられることです。私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です。               ピリピ人への手紙1書20節ー21節

お祈りします。恵み深い父なる神様。

私たちがイエス様によって飽くことにも飢えることにも、富むことにも乏しいことにも、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ています。私たちは、私たちを強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。イエス様に頼る人生はそのようなものです。それが真の福音の力であり秘密です。今日も、私たちが真の福音の力によって生きる人生を送れるように助けてください。全てのことを感謝し、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。