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2015年7月12日主日礼拝
説教題:目標を目指して
聖書:ピリピ3章1節ー16節

恵み深い父なる神様。
今日も感謝します。今から御言葉の時間を持ちます。聖霊様が私たちの内に働いてください。神様の御言葉を理解できるように導いてください。すべてのことを感謝し、イエス様の御名によって祈ります。アーメン。

私たちは前の説教で、パウロの伝道に大切な存在であり、仲間であった二人の人物について学びました。その名はテモテとエパフロデトです。彼らはどんな時でも、自分の命に危険があっても神様と人々の前に忠実な人でした。今日はパウロの生き方を通して目標を目指して生きる人生について学びたいと思います。今日も今日の御言葉を通して神様の御心が何かともに学びましょう。

1.真の割礼者

パウロは3章からは新しい主題に入ります。2節では犬と悪い働き人、肉体だけの割礼の者に気をつけてくださいと警告しています。ここで語られている犬と悪い働き人、肉体だけの割礼の者は誰で、何を意味するでしょうか。まず、犬とは軽蔑的な対象を指す言葉として使っています。イエス様はこの言葉を真理に逆らう者と異邦人を指す言葉として使いました。ここでの意味は聖徒たちを攻撃しているユダヤ主義の悪者を指す言葉です。また、悪い働き人とは神様のめぐみを信じないで、律法を行うことで救いを得ようとする人々です。肉体だけの割礼の者とは神様のめぐみを捨てて、意識的な行いを注視する律法主義者です。彼らは神様のめぐみより、自分が今まで守ってきた人間的な行いが最優先であり、それが真理だと思っています。それで、彼らは神様の教会を迫害する者になっています。パウロはそれらの者たちに対して気をつけなさいと教えています。パウロは3節からは2節で警告したことの理由を説明しています。パウロは律法による行いだけを守るユダヤ主義たちが真の割礼者ではなく、心に割礼を受けた人々が真の割礼者だと教えています。その人には三つの特徴があると教えています。一つ目は神の御霊によって礼拝をする事です。その人たちは伝統や形に縛られず、聖霊様の導きにより心から神様に礼拝を捧げます。それが一つ目の特徴です。二つ目はキリスト・イエスを誇る事です。ユダヤ主義者たちは律法を守る行いを誇りにしました。しかし、真の割礼者はイエス様を誇る者で、すべての満足と望みがイエス様から来ることを知っていて、それを認める者です。それが二つ目の特徴です。三つ目は人間的なものを頼みにしない事です。人間的なものとはイエス様以外の全てのもの、すなわち人間の儀式と功績を指します。それは神様の義を得ることが出来ない儀式と誇りを信頼しないで、ただイエス様だけを信頼するのです。それが三つ目の特徴です。パウロは真の割礼者とは形だけの宗教的な行いに捕われる人ではなく、聖霊様の導きにより心から神様に礼拝をし、キリスト・イエスだけを誇る者で、ただイエス様だけを信頼する者であると教えています。パウロは4節からは人間的なものを頼むユダヤ主義者たちに反論するために、自分の証を始めます。パウロは聖霊様によって礼拝し、イエス様だけを誇る者でありましたが、人間的に優れた者でした。しかし、彼は人間的なものを誇りとしませんでした。パウロがそうしなかった理由はそれに相応しい条件を持ってなかったからではなく、イエス様の死と復活だけが救いに導く唯一な真理であり、他には救いがないことを確信しているからです。パウロは5節からは人間的な条件の根拠を述べています。パウロは「八日(ようか)目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です」と言っています。また、「きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です」と言っています。改宗された異邦人は成人の時、割礼を受けますが、パウロは生まれてから八日目の割礼を受けた真のイスラエル人でした。それは神様から選ばれた民としての約束と特権があることを意味します。また、彼はベニヤミンの分かれの者で、きっすいのヘブル人だと言っています。それはパウロがアブラハムの子孫で、異邦人の血が混ぜてない純粋なヘブル人であるのを意味します。そして、律法についてはパリサイ人、すならち、彼はパリサイ派の家庭に生まれ、パリサイ派の一番偉い先生であるガマリエルの下で学んだ者です。その熱心は教会を迫害したほどでした。彼はそれが神様の御心で、神様の教会を守るために正しいことだと思っていました。また、彼は律法による義についてならば非難されるところのない者でした。誰でもパウロの生活を見て正しいと認められる者でした。しかし、それは形だけの形式的な律法主義に過ぎないので、神様が認める霊的な律法主義に至ることが出来ませんでした。パウロは7節では「私にとって得であったこのようなものをみな、キリストのゆえに、損と思うようになりました。」と告白しています。多くの人々がその人間的なものを誇りとし、それによって生きようしていました。また、それを目指していました。パウロが持っている人間的なものは誰も手に入れることが出来ない特別なものでした。それだけでも一生心配なく生きることが出来るものでした。しかし、パウロがイエス様と出会うことによって彼の人生と価値観は180度代わりました。今まで得だと思ったすべてのものが損と思うようになったのです。それどころか、パウロはいっさいのことを損と思っていますし、すべてのものを捨てて、それらをちりあくだと思っていますと告白しています。すべてのものがくずだと告白しているのです。パウロがイエス様と出会い、知るようになったことのすばらしさは彼がそこまでしても、一切これによって悔いすることがないぐらい彼を変えました。イエス様と出会う人生は今まで生きた人生から徹底的に変えられることを意味します。今までは他の人々に合わせることで、安心感を得る人生からイエス様に合わせることで安心感を得る人生に変えられるのです。この世の人々と全く違う生き方を知り、満たされる人々がイエス様と出会った人々です。

2.キリスト・イエスを知る知識

パウロは9節では「律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。」と告白しています。パウロは神様に受け入れられるために一生懸命律法を守りました。しかし、それでは不十分でした。イエス様の十字架の贖いを信じる信仰によって義と認められる奥義が必要で、それがパウロの本当の望みであると言っています。パウロも多くの信仰の先輩たちも、今日の私たちもその望みによって生きているのです。続けて、パウロは「キリストとその復活の力を知り、またキリストの苦しみにあずかることも知って、キリストの死と同じ状態になり、どうにかして、死者の中からの復活に達したいのです。」とキリスト・イエスを知る知識について語っています。特に、パウロは復活の力、すなわちキリスト者が死んだ後、経験する力ではなく、信じる者の中で働いておられる復活されたイエス様の力を知識的にも経験的にも知りたいと言っています。この復活の力は信じる者が新しい生き方をする生きる力を与えてくれます。パウロは単純な歴史の事実として復活を受け取るのではなく、今生きる力をもらうために復活の力が必要であると強く感じています。復活されたイエス様を自分の個人的な生活の中で、深く経験したいと思っていたのです。それは私たちにも同じです。イエス様の復活の力を歴史の事実として受け取るのではなく、それは今生きる力をもらうために必ず必要なものなのです。私たちは個々の生活の中でイエス様の復活の力を期待し、経験しなければなりません。その生き方はキリストの苦しみにあずかることであると聖書は教えています。イエス様のために受ける苦難は別のものではなく、復活の力と分離されるものではなく、別の側面であるのです。私たちはイエス様のために様々な苦難と苦しみを経験します。しかし、それは真に幸いなものです。イエス様とともに苦しみを受ける者はイエス様とともに栄光を受けることが約束されているからです。イエス様の復活の力は私たちが生きている間にも必要であり、その力によって私たちは生きるのです。また、やがて来る復活の朝には私たちがその力によって、栄光の中で復活します。それが私たちの真の望みです。ですから、この世では少し貧しくでも良いです。少し損して良いです。少し問題があっても良いです。うまく行かなくでも良いです。解決できない苦難と苦しみがあっても良いです。なぜならば私たちは真の希望を持っているからです。

3.目標を目ざして

パウロは12節から信仰の競走について語っています。ダマスコで復活したイエス様と出会ったパウロはそれを思い出しています。彼の信仰の競走は始まったばかりで、ゴールを目指して走り続けなければならないと言っています。パウロはうしろのものを忘れ、ひたむきに前のものに向かって進みますと言っています。「あの時が良かった」とか、「私はこのぐらい奉仕するから良いでしょう。」等、自分が今までやったことに目を止め関心を置くことではなく、ひたすら前に進むことを勧めています。それはキリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るためです。私たちのこの走りには賞があるのです。しかもその賞は一人一人に与えられる栄光があるものです。ですから、私たちは目標を目ざして一心に走っているのです。目標を目ざすとはイエス様を真っすぐに見ることで、信仰の競走の基本です。それと同時に、自分の人生の歩みの中でもイエス様に目を止める事を意味します。私たちは自分の環境と状況に影響を受けやすい者です。影響を受けている時は自分や環境、状況に目が止まっているのです。しかし、私たちが目を上げてイエス様に目を止めるなら環境と状況が変わらなくでも平和を保つことが出来ます。前に進むことが出来るのです。私たちの人生で一番、大切なことは今どこを見ているかです。イエス様ですか。自分ですか。環境ですか。状況ですか。イエス様に目を向け、そこに目を止めましょう。イエス様を信じる者は信じた時が信仰の競走の始まりです。しかし、そのゴールを目指して走ることを忘れ、途中で休んでいる人々がいます。私たちのゴールはそんなに簡単なものではありません。私たちはイエス様に似た者まで成長しなければなりません。とても難しい目標です。しかし、その目標を変えることは出来ません。それは神様の御心だからです。けれども、難しいことですがそれは不可能ではありません。私たちがイエス様に目を止め、復活の力と聖霊様の助けによって徐々に進むなら目標にたどり着けるからです。私たちはその約束を信頼して今日も走り続けるのです。このゴールには愛するイエス様と多くの証人たちが待っています。それが私たちのそれぞれの使命です。

4.おわりに

こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。ヘブル12:1−2

お祈りします。恵み深い父なる神様。

私たちは自分の信仰の競走を始めたばかりの者です。一人で走っていると思う時もありました。しかし、聖書には多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いていると書いています。ですから、私たちは自分の前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けるのです。今日も、明日も走り続けることができるように助けてください。イエス様から目を離すことがないように助けてください。全てのことを感謝し、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。