2015年6月21日主日礼拝説教
説教題:キリスト・イエスの心構えでいなさい。
聖書:ピリピ2章1節ー11節
今日の御言葉はピリピ2章からです。私たちは前の説教で、ただ、キリストの福音にふさわしく生活すること、すなわち、天国の市民としてふさわしく生きることを学びました。キリスト者はキリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜わったことも学びました。
1.一致が保ちなさい。
パウロは続けてキリスト者が教会で徳を立てるために必要な四つのことを教えています。それはキリストにある励まし、愛の慰め、みたまの交わり、愛情とあわれみだと教えています。その第一は励ましです。パウロが教会に対して聖霊に満たされ神様の御言葉によって励まししたように、お互いにも励まし合いなさいと教えています。聖霊に満たされ神様の御言葉のよってお互いを励まし、教会の徳を立てるのです。第二は愛の慰めです。キリストが教会を愛したように、パウロも教会を愛しました。それと同じようにお互いに愛の慰めがあることが必要です。お互いに弱さを認め、受け入れることにより、愛をもって慰め、教会の徳を立てるのです。第三は御霊の交わりです。キリスト者はみたまによって教会の一員になりましたので、お互いに御霊の働きに従う交わりがあります。まず、個々が御霊との交わりを持ち、そこからさらに広い御霊の交わりをし、教会の徳を立てるのです。 第四は愛情とあわれみです。キリスト者には弱い者と困難に陥った(おちいった)者に対する愛情とあわれみがあります。それは、自分の問題だけを考えることではなく、周りの弱い者と困難に陥った者に対する関心から愛情とあわれみが現れ、教会の徳を立てるのです。さらに2節で、パウロは「あなたがたは一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください」と教えています。「一致を保つ」という意味は同じ考えをするという単純なものではなく、感情、態度、意志を共にするという、より広い意味を含んでいます。パウロが一致を保つことを強調した理由は異教徒からの迫害から信仰を守るためであり、また、教会の中の争いと問題の解決のためでもありました。パウロがこの手紙を送った目的には牧会的な目的が含まれています。 初代教会にも今日の教会と同じように様々な問題と困難がありました。それで、パウロは続けて3節に、一致を保つための具体的な方法を示しています。まず、自己中心や虚栄(きょえい)をしないことです。虚栄とは内容のない栄光と自慢を意味します。自らを高くし、栄光を求める時、争いが起こり教会の中で不一致が起こるのです。 次に、へりくだることです。それは神様の前でへりくだることのゆえに人の前でも他の人々は自分よりもすぐれた者だと認めてへりくだるのです。当時はへりくだることは徳ではなく奴隷の考えから生まれた屈辱(くつじょく)を意味しました。ですから、今日より大きな意味であり、当時の人々には大きなチャレンジになりました。それは、プライドにとても傷が付く行動でもありました。今日の私たちにも大きなチャレンジであります。今日、私たちの信仰の現実はへりくだることで悩むというより、自己中心や虚栄の問題で失敗を続け、悩んでいるのではないでしょうか。私たちはいつの間にか自己中心になってしまいます。また、いつの間にか高慢になってしまいます。しかし、キリストがこの世に来られ、へりくだることの見本を見せて下さいました。それで謙遜がキリスト教の最大の美徳になりました。そのへりくだりによってお互いに仕えることで一致が保てるのです。パウロは続けて4節では「自分のことだけではなく、他の人も顧(かえり)みなさい」と教えています。それは自分の利益と賜物だけではなく、他の人の利益と賜物も大切にすることをおしえています。自分の利益と賜物だけよければ他の人はどうでもいいだと思うことは、やめるべきです。相手の人も益になることを探る必要があります。そのためには自分のペースを少し落とす必要があります。そのためには自分の利益をとることを制限する必要があるかもしれません。お互いに実を結ぶことが大切です。それで、お互いに心から受け入れることによって一致が保てるのです。
2.キリスト・イエスの心
5節でパウロは「あなたがたの間では、そのような心構えでいなさい。それはキリスト・イエスのうちにも見られるものです」と教えています。私たちがお互いにへりくだるための模範としてキリストが示されています。キリストは究極的なモデルとしてこの世に来られました。ですから、パウロはピリピ教会の人々にモデルとしてキリスト・イエスの心構えでいなさいと教えているのです。 キリストが自らへりくだり、自分を捨て、十字架を背負うことまで服従(ふくじゅう)されたように、キリスト者はお互いに謙遜になり、自分を否認する時、争いと虚栄がなくなり、教会の一致が保たれます。教会の争いの中ではキリストの姿は消え、人間の姿だけが残ります。そこにはイエス様の十字架はありません。そこにあるのは人間の腐りきった罪のにおいだけです。何も無いのです。 それは自分のプライドを高めるため、あるいは自分のプライドが傷がつくのを恐れ必死でそれを守るために命をかけ争っているからです。しかし、キリストは神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てられました。キリストは神の御姿、すなわち神様の本質的な属性と品性を持つ方です。キリストは神の御姿の中に存在する方で、神様と分離された状態ではなく、神様に属して神様の本質を所有されます。また、キリストは神様と同等な方ですが、時間と空間に制約される人間になるためにご自身の栄光を放棄されました。キリストが十字架に付けられる前にもその栄光は神様と同等でした。キリストは神様の御姿で、神様と同等(どうとう)な方なのです。しかし、堕落した人間の救いのために、その栄光を放棄して仕える者の姿をとられました。キリストはご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。また、キリストが仕える者の形だけとることや仮に仕える者の姿になったのではなく、仕える者の本質的な属性をとり、仕えられました。11節では「キリストは主である」と書いてありますが、7節ではキリストは「仕える者」として書かれています。それは、キリストが人類のためにご自身の権利と特権を放棄し、罪の無い人間の姿で来られたことを表しています。人間と同じようになられたとはキリストは罪の本質を除いたすべての面で他の人間と同じようになられたことを意味します。キリストは真の人になられました。真の神様であるキリストが真の人になられたのです。それは人間の知識では理解できない神秘であります。
3.イエス・キリストは主である
8節でキリストは「人としての性質をもって現われ、自分を卑(いや)しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われました。」と書いてあります。キリストの謙遜は人間の姿になるへりくだりによく表されています。栄光の方であられるキリストが低くなり、惨めな人間の姿になられたのは限りない謙遜の表れであります。しかし、キリストの謙遜はさらに進んで自ら神様に従い十字架の道を歩まれました。 キリストは神様の御姿であられるにも関わらず、神のあり方を捨てて神様の御心を成就するために死ぬまでに従われました。ですから、十字架はキリストの謙遜の確かな証になります。それゆえ神様は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。神様はキリストの謙遜と死から、再び復活と、死への勝利をとおして栄光に至るまで高く上げてくださったのです。 それで、すべての名にまさる名をお与になりました。それは、キリストが全宇宙を治める主権を所有される主であることを表すのです。続けて10節、11節では、「それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、『イエス・キリストは主である』と告白して、父なる神がほめたたえられるためです」と書かれています。神様がイエス・キリストを高く上げ、主という名を与えられた理由は全ての被造物がイエス・キリストの前に従い主として仕えるためでした。 ここで、イエスの御名は9節の「まさる名」と同一なもので主を指します。キリストが主であるから全ての万物が彼に従います。パウロはキリストに従うものを三つのこと、すなわち、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるものと言っています。それは天使と天にいる聖徒たち、この地に生きている者たち、サタンとその仲間と地獄にいる者たちを意味します。あるいは全ての万物がキリストを主として拝(はい)し、従うのです。すべての口が、「イエス・キリストは主である」と告白することは神様の御心が成就することを意味し、それによって神様に栄光を帰すのです。
4.終わりに
パウロはピリピ教会の中に起こっている問題と葛藤(かっとう)と異教徒たちの迫害から教会を守るためにお互いにキリストにあって励まし、愛によって慰め、みたまの交わりをし、愛情とあわれみによってお互いに仕えることを教えています。また、一致を保つためには自己中心や虚栄になることなく、へりくだることを勧めています。パウロは究極的なモデルとしてキリストの姿とその生き方を語っています。 キリストは神様の御姿で、神様と同等な方ですが、その権利と権能を捨てて、堕落した私たちの救いのために、仕える者の姿になられました。キリストはご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられました。十字架に付けられ死ぬまで神様に従われました。それで、パウロはピリピ教会の人々にモデルとしてキリスト・イエスの心構えでいなさいと教えています。それが救われた者が目指す姿であり、ライフスタイルであると言っています。 しかし、私たちの姿はどうですか。この御言葉にアーメンだと自信をもって言えますか。むしろ、あまりにも自分の現実の姿とかけ離れているので戸惑いを感じることはないでしょうか。自分が犯した過ちも他の人が指摘するとすぐに怒るし、自分のプライドを傷がつくのを守るために色んな方法を使って巧妙に相手を攻撃してはいないでしょうか。いつも自己中心で、自分を守るためには裏で色んな方法を使うことを平気でやっているのではないでしょうか 。熱心な教会の奉仕や祈り等の様々なミニストリーも栄光を神様にお返しせずに、自分がその栄光を勝ち取ろうとしてはいないでしょうか 。それは、自ら高くし、空しい栄光を求める姿であり、惨めな姿ではないでしょうか。どうすれば、自分が神様の栄光に反する過ちをしているかいないかが分かるでしょうか。それは簡単です。今、争っていることがあるなら、それは100%自分のプライドが原因で起きているからです。いくら宗教的な理由や神様のためだと言っていても自分のためにするからです。私たちはいつまでも自分中心であるからです。また、もう一つの判断基準は自分も他の人も益になることをしているか、すなわち聖霊の実が結んでいるかどうかです。熱心に教会のミニストリーをすればするほど争いや問題が相次いで起こるなら直ちにその働きをやめるべきです。もちろん、教会のミニストリーにはサタンの妨げがあります。また、他の人々と意見の違いは存在します。しかし、それで自分のミニストリーは正しいのだと言える根拠にはなりません。 すべての争いと問題の答えと解決はとても簡単です。でも、なかなか解決できません。私たちはとっても頑固な者であるからです。ですから、キリストが自ら見本になってくださったのです。キリストは神様であられるにも関わらず、惨めな人間になられました。その権利の放棄とその不便さは信じられないことです。キリストは十字架に死ぬまで神様に従われました。 それは、キリストがそこまでにしても得たいものがおられたからです。それは私たちの救いです。そこまで、私たちをすぐれた者だと認めてくださったのです。そこまで、私たちに関心と愛をお持ちだったのです。キリストの心情が痛みを感じるまでに愛されたのです。また、キリストは高い所、もてなしを受ける所から降りて、上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれ、たらいに水を入れ、愛する弟子たちの足を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふかれました。今日もイエス様は愛する弟子たちになさったことと同じように私たちの汚れた傷だらけの足と心を洗って、腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふきながら言っておられます。「それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。」 自らへりくだられた王。自ら放棄された主。それがキリストの心です。それが私たちの新しいライフスタイルの基準です。私たちは何を自慢することができるでしょうか。ですから、私たちは争いをやめ、何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者だと認める新しいライフスタイルになるように祈りましょう。もし、私たちがお互いに愛し、仕える者になると世の人々が私たちの姿を通して神様の姿を見ることができます。そして、世の人々は私たちの新しいライフスタイルを見て、その口からイエス・キリストは主であると告白するのです。
お祈りします。恵み深い父なる神様。 私たちはいつも自己中心や空しい高慢、栄光や自己満足に満ちた者です。教会のミニストリーも神様のためだと言いながら、結局は自己満足や利益のために使ってしまう者です。主よ。赦してください。イエス様が神様に従って十字架の道を歩んだその謙遜を少しでも分かるように導いてください。イエス様が私たちをすぐれた者だと認めたように私たちもお互いにへりくだって、自分よりもすぐれた者だと認めることができるように導いてください。私たちにイエス様の心をください。それで、私たちがお互いに愛し、お互いに仕える者になれますように。それで、世の人々が私たちの姿を見て、その口からイエス・キリストは主であると告白しますように。全てのことを感謝し、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。