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2015年6月14日主日礼拝
説教題:ただ、キリストの福音にふさわしく生活しなさい。
聖書:ピリピ1章27節ー30節

今日の御言葉はピリピ1章27節からです。前回のパウロは獄中であっても、世を去ってキリストと共にいるのが、はるかに勝っていると思っていました。しかし、もう一度ピリピ教会に行くことも望みました。パウロにとって生きるにも死ぬにもすべてが主の御手にあることを確信していました。どんな場合にも恥じることなく、いつものように今も大胆に語って、生きるにも死ぬにも私の身によって、キリストがあがめられることです。私にとっては、生きることはキリスト、死ぬことも益です。と告白しました。それはパウロが福音による力に満ちた告白であり、生き方でした。パウロはさらに信じる者がどういうふうに生きるかについて述べています。

1 ただ、キリストの福音にふさわしく生活しなさい

27節ではただ、キリストの福音にふさわしく生活しなさい。と教えています。ここで使われている生活しなさいという言葉の原言的な意味は「市民らしく生きなさい」です。ある人はそれをローマの市民として生きることであると思いますが、そうではなく天国の市民らしく生きなさいの意味です。もちろん彼らはローマの市民権を持っていることを誇りだと思っていました。しかし、彼らはそれより自分の国籍は天にあることをもっと誇りました。パウロは今は地上に生きていても福音をもらったのは天国の市民にふさわしい生き方が必要であることを語っていました。自分がどこから来た者で、どこに属しているかをよく理解していました。彼らには目の前にあるもののために生きる生き方ではなく、目に見えないもの、永遠なものをそれが見えるように生きる人生です。見えないが見えるように生きる人生です。見えるもののために生きる生き方と見えないもののために生きる生き方、その二つの姿は同じように見えても全く違う生き方です。そこには根本的な違いがあることです。目に見えないものを見えるように生きるその生き方の基準は福音です。イエス・キリストを信じることにより天国の市民になったことです。地上でどこの国籍を持っている人であるかどうかは関係なく、イエス様を信じる者はすべて同じ市民券を持っている神の国の人です。ですから、パウロはピリピ教会の人々に天の国の市民らしく生きることを勧めています。それは、全ての生き方が全く違う生き方が必要であることを意味します。それはこの世のルールを無視することではありませんが、究極的には全てを福音に従うようにすることを意味します。時によってはこの世の国のルールと神の国のルールの中で一つだけを選べなければならない時があります。その時は私たちは目の前に利益や迫害を恐れず、神の国を最優先するべきです。時には大きな損害と恥を感じることもあるかもしりません。しかし、パウロはその生き方が福音にふさわしい生き方だと教えています。また、ピリピ教会の信徒たちにキリスト者としてキリストの召しに一致して、その特権と責任にふさわしい生き方が求められています。それは、私たちも同じです。私たちも福音をもらった者としてどんな時でもそれらのものを特権であり責任であることを受け取って大胆に前に進むことが出来るのです。

2 一致のための二つの目的

続けて、パウロはキリストの福音にふさわしく生きることは二つの目的のためであると教えています。その一つ目は霊を一つにしてしっかりと立ち、心を一つにして福音の信仰のために、ともに奮闘するためです。主にある兄弟たちが共同の心と精神を持って、お互いに協力することを勧めています。一人で奮闘することよりともに奮闘することを勧めています。その協力は福音の信仰のために必要であり、そのためにすることです。ここで言っている福音の信仰とは福音の中で具体的に現れる真理を意味します。福音の奥義による真理は偽りの世界の中の唯一の光であり、命です。その真理を多くの人々に宣べ伝えるために一つになる必要があります。死んでいる魂に生きている真理であるイエス様を宣べ伝えるために一つになります。また、二つ目はどんなことがあっても、反対者たちに驚かされることがないことです。反対者たちとは教会の中で問題を起こしているユダヤ人を中心にした神様に逆らった人々でした。パウロはピリピ教会の人々が数多くの迫害と偽りの教師たちの誘惑の中でも恐れることや逃げることなく大胆さを持って霊的な戦いをすることを勧めています。どんな時でも真理である福音のために勇気を持って前に進みです。色んな哲学と異端的な教えの中で真なる福音にしっかり立つことです。誰が何を言っても福音に立つことが必要です。それが福音を攻撃する者たちには滅びのしるしになり、我らにとっては救いのしるしになることだとパウロは励ましています。福音を反対する者の行動は自分も知らない内に滅びのしるしを現すことです。彼らはそれが神様のためだと錯覚する時もあります。あるいはそれが御心だと思う時もあります。パウロが神様のために多くのクリスチャンを獄に入れたことや迫害したこともそうです。彼の特別な熱意は神様のためだと言いますが、実際には多くの神様の人々を迫害することになりました。いくら良い動機で、神様のための特別な熱意を持って行うことであっても御心でないと毒になることです。他の人はもちろん、自分にも毒になります。それは滅びのしるしであります。しかし、それ迫害を忍耐を持って耐えることが出来るのは救いのしるしだとパウロは言っています。福音による迫害の中で忍耐をもって生きることは救いのしるしです。そこにイエス様がいるからです。ですから、苦難と迫害を耐えることです。ピリピ教会の人々の信仰は自分からではなく神様から来るものです。その信仰によって忍耐が生じ、耐えることが出来るのです。そこにイエス様が共におられることです。イエス様は私たちと共に苦しみを受けるのです。自分一人だけ苦しみを受けことではなく、イエス様が共にしてくださるのです。それが救いのしるしです。

3 キリストのために苦しみも

パウロは29節ではあなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜わったのですと教えています。キリスト者が神様の養子になる特権はめぐみによるプレゼントです。それは私が何もする必要がない一方的な神様のめぐみです。いや私たちが何も出来ないから神様が一方的になさった愛です。そのめぐみはキリストを信じることと苦難を受けることがあると書いています。キリスト者はキリストを人格的に信頼し、頼ることです。また、神様の御心に従って、キリストが苦難を受けたことのように、キリスト者もキリストの苦難に預かる者です。自分の十字架を背負ってイエス様の十字架を理解するのです。30節ではパウロが神様の御言葉を宣べ伝えた時に受けた色んな苦難と問題がこれからはピリピ教会の人々にも起こることを語っています。パウロがピリピで伝道した時、迫害を受けたり、悪霊に取りつかれた女奴隷の問題のために獄に閉じ込められることが起こりました。これらのものはピリピ教会の人々が直接、自分の目に見たものであり、彼らも異教徒の妨害や迫害に直面しているのです。その戦いは福音のための戦いであり、パウロはその戦いが自分だけではなくピリピ教会の人々にもその戦いがあることだと語っています。

4 終わりに

パウルはピリピ教会の人々にただ、キリストの福音にふさわしく生活しなさいと勧めていました。それは福音のめぐみをもらった人には多くの特権と責任があることを意味します。歴史と時代を超えて私たちが福音を聞いて救われたのは誰かがその特権と責任をふさわしく果たしたからです。その特権と責任は何ですか。それはイエス様の十字架の死と復活を信じる者はその罪が赦され、神様の養子になり、神の国を相続される者になったことです。それは、何も赦されるための価値が無い者に、また、罪人で、何もやる気がない怠け者であった時、主が我らの身代わりにして死んで下さった愛があったからです。それに止まらず、神の国に受け継ぐ者になれる信じられない特権も与えられていることです。ですから、神の国の相続者としてふさわしい生き方が求めているのは当然です。天の市民としてふさわしく福音のために一致をもって、奮闘することを勧めています。キリストの初臨からこの地上に到来した神の国は私たちの中にあります。今はキリストの再臨によるその完成に向かって走っています。その間、我らは神の国の完成の仕事に加わる特権が私たちに与えているのです。他者に委ねたことではなく、私たち一人一人に委ねていることです。しかし、その働きには苦しみもあると教えています。イエス様を信じることはハッピーで成功することが最高、イエス様ありがとうだ、それで十分だと終わりだとは言えないことです。けれども、その苦しみはイエス様が私たちのためにむちに撃たれた痛みと十字架の信じられない孤独とは比較ができないものです。神様であるイエス様が自分が造った被造物に呪われ、恥ずかし十字架に殺されることに至るほどの苦しみは存在しません。昔も今もイエス様の福音を宣べ伝えることは人々から歓迎されるのではありません。寧ろ、愚かなものだと無視してくることが一般的な反応です。また、そうなると一般社会生活と仕事の中で難しいことも起こります。自分の手に持っているものが無くなることを恐れ、信仰と生活が別人になることや隠れたクリスチャンとして生きるようになります。しかし、皆さんはどんな者であり、どこから来た者で、どこへ向かっている者であるかを考えなければなりません。自分が何者かをはっきり分かるようになるとその生き方が決まってくるでしょう。もし昔の人々が天の国の市民として生きることを恐れて目の前のことだけにとらわれた人生を送ったら、今。私達に伝わったこの福音がまだ我々が受けることができない状態にとどまっていたのかもしれません。しかし、彼らは自分がもらった福音がどれくらい貴重で、深刻なものであるかが分かったのです。ですから、彼らはイエス様の福音に全てをかけたのです。彼らには神様の燃える怒りに滅びに至っている魂に対する憐れみと緊迫感がありました。彼らはその福音のためには自分の多くのことが犠牲になり、放棄することになるのをよく分かっていました。彼らはこの世で、彼らが持ったものは全てがなくなる可能性があることが分かっていました。自分の命さえも。しかし、彼らはその福音の特権と責任を果たすことを選択しました。なぜでしょうか。彼らに目には罪人を愛したイエス様の涙があったからです。彼らの胸には十字架の苦しみも耐えるイエス様の熱い心情があったからです。彼らの手には、まだ暖かいイエス様の血がついた福音があったからです。皆さんは99%の人々が神様の燃える怒りに滅びに至っているこの国に対する緊迫感がありますか。今、皆さんの目にはイエス様の憐れみの涙がありますか。皆さんの胸には、失われた魂たちに向け哀痛したイエス様の熱い心情がありますか。そして、その手には何を持っていますか。お祈りします。