2015年8月30日主日礼拝
説教題:イエスの十字架とあなたの十字架
聖書:マタイ16:21−26
おはようございます。今日のみ言葉はマタイ福音書の16章21節から28節までです。今日のみ言葉を通して神様の御心が何か共に学びましょう。
Ⅰ 神の時を待つ
まず、21節から見てみたいと思います。「その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた」。21節の「その時から」は弟子ペテロがイエス様のことを「あなたは生ける神の御子キリスト(救い主)です」と告白した後のことを指しています。それまではイエス様は御自身のことを「メシアだ」とはっきり伝えていませんでした。20節には「そのとき、イエスは、ご自分がキリストであることをだれにも言ってはならない、と弟子たちを戒められた」とありますが、なぜでしょうか。それはイエス様御自身が神様に従って神様の時を待っておられたからです。神様の時がくるまで忍耐の忍耐で待っておられるイエス様の謙遜な姿を見ることができます。信仰者として色々と重要なことがありますが、もっとも重要なのは神の時を待つ姿をイエス様から学ぶことです。神様の時を待つことは神様への信頼の告白であり、自分の弱さと罪深さを認めることになります。傲慢な私たちが神様の時を待つことは本当に難しいです。自分の欲望や罪がいつも優先するからです。傲慢とはなんでしょうか。傲慢は簡単に言うと自分の力で、神様なしに勝手にやることです。自分の力だけで生きる人は口では神様を信じていますと言っても全く神様とは関係ない人であるかも知れないのです。そんな人は神様を信頼していないので、神様を自分の目的のために利用しやすくなります。自分が神様の僕ではなく神様が僕になっている状態です。自分が神様をコントロールするという状態です。私たちの罪深さによる状態です。気をつけなければなりません。また、21節に戻ります。「その時から、イエス・キリストは、ご自分がエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた」。この21節は、やがて神の時が来るという偉大な宣言です。その時が来たので、イエス様は御自身の地上における最高の使命である十字架のことを語り始めました。簡単に言うと「今からが本番です」とイエス様は弟子たちに語られたのです。
Ⅱ 神様の御心は十字架
イエス様の教えに対して弟子たちの反応はどうだったでしょうか。「はい、分かりました。その言葉を待っていました。イエス様はすべての人類の救い主です。アメン!それが神様の御心です。私たちも付いて行きます。」と心強い言葉を返したでしょうか。22節を見ると「するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。『主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。』」ペテロは控えめに話をしているように見えますが「先生!どんでもないことです。先生は神の子ですからそんな話はやめてください。先生が私たちと共に造る新しい国!それについて話してください。十字架!あり得ないことです!」と叫んでいるのです。彼らが夢見ている現実とイエス様が夢見ている現実は全く違うものでした。23節でイエス様は愛する弟子であるペテロに「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」と厳しく叱られました。「下がれ。サタン。」イエス様が一番愛している弟子であるペテロをイエス様が叱られた言葉です。いくらペテロが過ちをしてしまったとしてもちょっと言い過ぎではないでしょうか。なぜ、イエス様はそこまで言わなければならながったでしょうか。それは、マタイの福音書4章8節、9節でイエス様が荒野で断食したとき、悪魔が、イエス様を非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々と栄華を見せて、「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」と誘惑したことと関連しています。それは苦難なしに、十字架なしに栄光だけを求めることは、神様の絶対的な御計画から根本的に外れたことになるからです。神様の御心は十字架にありました。
Ⅲ 「神のこと」と「人のこと」
イエス様は23節で、「神のこと」と「人のこと」について教えておられます。その「神のこと」と「人のこと」とは何でしょうか。「神のこと」とはイエス様が自ら預言されたことで、エルサレムで権力者たちから苦しめられ、十字架に付けられ、死んで三日目に復活し、最終的に天から再び父の栄光を帯びて天使たちと共に来て地上のすべての民を治めるという神様の奥義を意味します。「人のこと」とは苦難なし、十字架なしの栄光だけの神の国を求めることです。弟子ペテロはイエス様のことを「あなたは生ける神の御子キリスト(救い主)です」と告白しましたが、実は自分の野望と罪と先入観から作り上げた別のイエス様を求めていたのです。神様の御心を求めたのではなく、自分たちには力を持っておられる方が必要だったのです。ペテロはイエス様がメシアであることより、自分の国をローマから解放し、新しい国を作り、自分たちにも高い地位を得ることを期待しました。ですから、ペテロの発言はイエス様が十字架に死ぬことに対する心配からではありませんでした。イエス様の働きを妨げ、自分たちがやりたいことをイエス様にしてもらいたかったのでした。結局、後にペテロはイエス様を三回うらぎりました。本当のイエス様と出会うことができなかったからです。時には「人のこと」は「神のこと」より人間的で現実的に見えます。しかし、その目的と結果には大きな違いがあります。
Ⅳ 終わりに
みなさんはどうですか。本当の自分の姿とイエス様に向き合っていますか。あの熱心なペテロは三回もイエスを裏切った後、絶望の中で本当の自分の姿に向き合えました。向き合ってようやくイエス様の言葉を思い出し、その教えを理解することができました。自分のいちばん深いところに隠れているどうすることもできない絶望的で罪深い姿と神様の前にありのまま、向き合うことはとても大切です。イエス様の十字架はつらく、はずかしことです。痛いことです。人気がないものです。しかし、そこには本当の自由があり、解放、そして救いがあります。私たちはあの十字架によって癒されます。そして、安らぎをもらうのです。そこに本当のイエス様がいるからです。近代の教会は十字架と罪、悔い改め、天国と地獄、神の裁きに対するメッセージをだんだん失っています。教会の中でそんなメッセージをするより、神様の愛、祝福、癒し、成功する方法などを教える方が歓迎されています。教会に何十年間と通っている信徒の中にも見られる傾向であります。もちろん祝福、健康、癒し、成功の必要は否定することではありません。問題は十字架の犠牲なしで得ようとしていることです。十戒の第二戒では自分のために、偶像を造ること、拝むこと、それらに仕えることは偶像礼拝だと教えています。偶像礼拝は神様から一番忌み嫌われることであり、正しい信仰に対する一番の敵になります。目に見える形での仏壇や祖先崇拝は偶像礼拝だとすぐわかりますが、目に見えない形である心につくられた自分なりの偶像はなかなか区別が難しいです。十字架は神様の国の到来を表す偉大なしるしです。イエス様が生涯で初めて叫ばれたことばは「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」です。神様の国の到来を宣言されました。イエス・キリストの十字架によって神の国の到来を宣言されています。神の国はもう来ています。神の国はイエス・キリストの十字架を信じる人々の心と体、そして信じる者が関わる家族、親戚、学校、職場、政治、国などに到来しています。私たちはその完成である主の再臨を待ち望む者です。信仰には信じる信仰と生き方としての信仰が必要です。神様が私たちを暗闇の中から大きな犠牲を払って救ってくださった事には理由はあります。それはご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを宣べ伝えるためなのです。それを簡単に言うと伝道するためなのです。伝道は私たちの生活のなかで主の支配を求め、それを実現することです。私たちはそれぞれ神様から与えられた領域があります。タラントと言ってもよいでしょう。私たちはキリストの使節なのです。ですから、神様から与えられた領域に神の国の到来、支配を伝えることは私たちの使命です。今、みなさんがいるところで、神様の国が到来するように切に祈りましょう。教会だけが神様の支配される場所ではないからです。ですから、私たちの家庭、職場も大切な場所です。仕事にも神様の支配を求めることが大切です。そこから私たちは神様からの使命を見つけることが出来ます。教会の中での働きだけが神様が認めてくださる働きではないからです。神様に仕える場所が違うだけです。ですから、だれでも神様の国のために働くことが出来ます。家の中で料理することも、洗濯することも、子供の面倒を見ることも、職場で働くことも神様の国の到来のために仕えることにつながります。神様が日曜日だけ生きておられる信仰は正しい信仰ではありません。神様は今も生きておられる方です。私たちのすべてのことを支配し、私たちのすべてを通して神様の国が実現することを願っておられるのです。
最後に、今日の御言葉を整理したいと思います。ペテロがイエス様のことを「あなたは生ける神の御子キリスト(救い主)です」と告白した後、イエス様は十字架のことを語られました。ペテロは十字架なしの栄光を求めました。ペテロは自分が作ったイエス像に従っていました。結局、ペテロは三回イエス様を裏切る失敗をしました。自分が作った偶像を拝んだ結果です。それはイエス様とは何も関係ありません。自分の欲望と野望に従うだけです。正しい信仰を持つことはとても大事なことです。イエス様の十字架には神様の国の到来と支配が現れています。私たちの生活のなかに神の国と支配が来た宣言でもあります。神様は私たちがいるところから呼んでくださる方です。そして、そこで神様の国の到来を私たちが神様と共に完成させ、そのために生きることを望んでおられます。皆さんも十字架のイエス様に立ちかえり、神様の国を自分のそばから地の果てまで宣べ伝える神様の御業に参加しませんか。
お祈りします。
恵み深い父なる神様。 私たちに十字架の救いの恵みを与えてくださったことを心から感謝します。この十字架の恵みよりすばらしいことはありません。しかし、私たちはいつの間にか自分が思い描くイエス様に満足していることはないでしょうか。悔い改めます。ほんとに自分の罪深さを、本当の姿を見ることができるように助けてください。正しい信仰を持つことができるよう助けてください。形骸化した宗教生活から生きている 信仰生活に立ち返ることができるように導いてください。主よ。私たちのすべてのことを神様にささげます。健康も富も時間も才能も家族も子供の仕事も学校も学びも趣味もすべてが主のものです。私たちはイエス・キリストの十字架で贖われたものです。私たちのものは一つもありません。私たちのすべての生活のなかで神の国の支配がありますように。私たちのすべてのことを主が支配してください。私たちがキリストの使節であり大使として与えられた自分の領域に神の国が来る御業に仕えることができるように祈ります。すべてのことを感謝し、イエス様の御名によって祈ります。アーメン。