2015年8月16日主日礼拝
説教題:「証人」
聖書:マタイの福音書16章24節—27節
序文) おはようございます。今日の御言葉はマタイの福音書16章24節から27節までです。今日の話はイエス様が 「あなた方は、私はだれだと言いますか」という質問を弟子達にしたことに対して、ペテロが「あなたは生ける神の御子キリストです」と信仰告白した後の話です。イエス様は自分が生ける神の御子、キリストであることを明らかにしました。そして、弟子達に十字架の道を教え始めました。今朝は、この御言葉をめぐって、主の御心をともに学びましょう。
Ⅰ 「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」。
生ける神の御子であるイエス様は、ご自身がこれから行こうとしておられる十字架の道とご自身に従う者にもそのような道があることを教え始めました。「だれでもわたしについて来たいと思うなら」、この御言葉はイエス様の目の前にいる弟子達に語られていることですが、その弟子たちだけに限定された御言葉ではないのです。もし、そうだったら、イエス様は「だれでもわたしについて来たいと思うなら」ではなく、「あなた方はわたしについて来たいと思うなら」と言ったと思います。しかし、イエス様は誰でもと言っています。その誰とは牧師、宣教師、神学生など献身者だけを指す言葉ではなく、救われた者、すなわち、私たち一人一人を意味します。イエス様を自分の救い主として告白した者、すべてに語られている言葉です。ですから、私たちもこの御言葉に注目する必要があります。続けて見ると、イエス様は「自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」と教えています。イエス様を信じる者はイエス様について行く者です。その人の生き方をイエス様は教えています。それは自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてイエス様について行くことです。自分を捨て、自分の十字架を負うのは何も考えずに、白紙状態になるということではありません。イエス様についていくことは内面的には自己否認であり、外面的にはどんな時でも積極的にイエス様に従うことです。自己中心の欲望と考えと主張、そして腐敗した昔の自分をイエス様に従うようにすることです。それが、自分を捨てることで、イエス様が自分の主人になることです。それが、イエス様に従う私たちに求められている新しい生き方です。
自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。
私たちは街を歩いて行くと、女性たちのネックレスや服につけるかわいい形の十字架のアクセサリーをよく見ることができます。きれいにデザインされた十字架に対する抵抗感を持っている人はほとんどいません。それはイエス様を信じてない人も同じです。元々、十字架はどのようなものでしたか。少なくともイエス様が生きた時代であるローマは、今と違い、十字架は最も残酷な死刑であり、最悪な罪人を殺す時、使った恐ろしいものでした。十字架で死んだ人は神様からも呪われたものだと考えました。人々は十字架に対する 強い抵抗感がありました。その話をすることさえも避けようとしました。そのような十字架をイエス様は教えているのです。弟子達は今まで見たことがないイエス様の力による奇跡と働きをみました。彼らはこれから新しい時代が来ると思いました。自分たちの人生にもすばらしいことが待っていると期待しました。それなのに、イエス様は十字架の話をしています。彼らはかなりのショックを受けました。そんなことなんて夢にも見ていませんでした。そんな彼らにイエス様は「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい」。と教えています。イエス様が教えている自分の十字架とはなんでしょうか。なぜ、イエス様の十字架ではなく、自分の十字架でしょうか。それは、イエス様の十字架は人間が負うことはできないからです。イエス様が全ての人々の罪のために背負った十字架の上には、義なる神様から、罪ある私たちが受けるべき恐ろしい裁きがありました。イエス様は私たちの罪のため、十字架で、私たちが、本来受けるべき全ての裁きを受けました。イエス様の十字架によって、私たちは罪から解放され、永遠の命を得ることが出来たのです。イエス様が私たちに自由を与えてくださったのです。私たちはイエス様のあの十字架で一緒に死んだものです。私たちは十字架に死んだ自分を覚えるために、また、イエス様を覚えるために自分の十字架を負うのです。イエス様を主と告白した瞬間、私たちはあの十字架でイエス様と共に死んだのです。昔の自分は死んで、今はイエス様が私たちの内に生きているのです。それを覚えるために自分の十字架を負うのです。続けて御言葉を見てみると「ついて来なさい」と書いています。それは、一回、二回だけついて行くのではなく、持続的に、絶え間無く「ついて来なさい」という命令です。イエス様についていく者はむりやりにすることではなく、あと、時々、ついて行くことではなく、全心全力で絶え間ない努力と献身を通じてついて行くことです。私たちの信仰の旅が終わるまで、イエス様に絶え間なく、ついて行くことが最も大切です。なぜならば、イエス様が私たちを全心全力で絶え間ない努力と献身を通じて愛してくださったからです。ですから、私たちもそのように生きるのです。
Ⅱ 「いのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです」
人間にとって命は本当に大切です。命がないと何もできません。しかし、今日の御言葉では、「いのちを救おうと思う者はそれを失います」と、教えています。いのちを救おうと思う者とは誰ですか。それは、自己中心な生き方で、自分の満足だけ求めている者です。自分を愛することは当たり前のことですが、自分に対する過度の愛を持っていることや、肉の欲望や命を失うことを恐れていることを指摘しています。そのような人は自分の考えが一番大切で、それを変えようとしません。そのような人は自分のために、すべてが必要な物であり、自分が中心になっています。御言葉も神様も自分のために存在し、中心はいつも自分です。しかし、御言葉はそのような人は「大切にして必死に守ろうとしていたそれを失います」と、警告しています。自分の力で何とかしたら守ることが出来ると思い、一時的にはそれが成功しているように見えます。しかし、実際にはそれに縛られている奴隷の状態で、最後は悲惨なことになります。イエス様は続けて「わたしのためにいのちを失う者は、それを見いだすのです」と教えています。イエス様のために求めるのが本当の求めだと教えています。自分の経験や知識、力ではなく神様にすべてのことを委ねることです。その中心は自分ではなく、神様です。それは、すべてのことを失っているように見えますが、実はその反対です。最後の勝利は私たちのものです。本当に大切なことを守り、得ることになります。それが神様の方程式です。
Ⅲ 「人は、たとい全世界を手に入れても、まことのいのちを損じたら、何の得がありましょう。そのいのちを買い戻すのには、人はいったい何を差し出せばよいでしょう。」
人間は誰でも、死に向かっている存在です。私たちの世の旅はいつか必ず、終わりがあります。しかし、多くの人々がそれを忘れて、目の前の楽しさに 、自分の魂を売っています。あるいは、どっちみち死んで全て空しく消えてしまう人生、滅びに向かって進む人生なので、どうでもいいと言って人生を無駄使いする人もいます。あるいは、過度な恐れに 縛られている人もいます。人々がイエス様から離れている理由がどういうことがあったとしても、結局、その人生はサタンが彼らの魂を支配していると御言葉は教えています。そこには本当の満足と平安はありません。人の死とは何でしょうか。ある人は「死は終わりだ」と言います。ある人は「死は怖いものだ」と言います。それが本当ですか。御言葉は死とは何だと教えていますか。御言葉は、死とは「物でも、魂の監獄でも、鬼の力でもない」と言っています。死は罪の結果であり、刑罰であり、自分の生き方の結果に対する責任を取ることだと教えています。イエス様無しに、自己中心に生きると死が私たちを支配し、死を避けようとするすべての労力は罪を犯すことにつながります。罪は神様の代わりに自分の考えで、自分を見ることから始まります。自分が決めた基準で行動することや、自分自身が勝手に自由だと想像し、自分なりの光栄を求めることです。ヘブル人への手紙9章27節では「人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっている」と教えています。イエス様の再臨の時、すべての人が蘇り、最後の審判を受けることです。その審判によって神様と共に生きる永遠の命と永遠の裁きに分かれます。ですから、肉の死は本当の死ではないです。死んだらすべてが終わりだというのは嘘です。どちらでも永遠に続けます。イエス様は私たちのために十字架に付けられ死んで三日目に復活しました。イエス様はご自身の権利、命、すべてを捨て、神様に従いました。死の陰まで下りましたが、死の力はイエス様を勝つことができませんでした。むしろ、イエス様は復活を通して、死から完全な勝利を得ました。死を滅ぼし、いのちと不滅を明らかに示されました。イエス様がこの世に来られた理由は死を滅ぼすためでした。また、イエス様は死者の中から最初に復活された方です。だから、イエス様を信じてついていく者はイエス様と共に死に勝つのです。私たちは死から永遠の命へと移っている者です。私たちには完全な勝利が約束されています。しかし、イエス様が再臨するまでは生きている人以外は信じる者であっても死を避けることはできません。けれども、結局、私たちは復活して、死を征服します。イエス様とともに復活するのです。ですから、私たちにとって死とはただ「怖いもの」、「終わり」という意味ではないのです。信仰の従順とは、イエス様の死を受けることです。すなわち、イエス様と共に死ぬことです。信じる者は今、生きている間でも、死を支配することができます。それは、イエス様と共に生きることで可能です。人が全世界を手に入れても、自分の命を1分ものばす力も権威もありません。私たちの命の主人は神様です。ですから、私たちは自分のためではなく、神様のために生きるのです。私たちのために死んでくださったイエス様のために生きることです。イエス様の死と復活の宣言は、私たちの信仰にふさわしい行動を求めています。毎日の生活の中でイエス様と共に、私たちの肉は死んで、イエス様が私たちの内に生きることが最も大切なことです。これからの私たちの人生では、永遠の命のために一時的な楽しさの欲望や肉の命まで、捨てる信仰の勇気が求める時が来るかもしりません。確かなのは、一時的な楽しさの欲望や 肉の命より、永遠の価値があるものを選択することが、もっとも賢い選択ではないでしょうか。
Ⅳ 「人の子は父の栄光を帯びて、御使いたちとともに、やがて来ようとしているのです。その時には、おのおのその行ないに応じて報いをします」
イエス様は父の栄光を帯びて、御使いたちとともに、やがて来ようとしています。復活して天に上ったその姿で再び来ます。その日は誰も分かりませんが、やがて確かに来ます。実はもう、神様の国は私たちの中にあるのです。再臨の時はそれらの完成です。その日、全ての聖徒たちは復活し、神様と永遠に治めるようになります。しかし、終末の時、神様の前で自分が今まで生きた人生について評価を受けることです。「おのおのその行ないに応じて報いをします」とは神様が一人一人に与えた使命を充実にしたか、どうかの判断です。救いは絶対的な神様の恵みの贈り物ですので、私たちが何もする必要はありません。ただ、信じることだけで十分です。しかし、私たちは黙示録22章12節にも書いてある「見よ。わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携(たずさ)えて来る。」という御言葉を心にとめて、備える必要があります。
結び)
マルティン・ルターは「死は人生の終末ではなく、生涯の完成である」と言いました。皆さんは自分の生涯の完成のために生きていますか。あるいは、死を恐れ、一日つらい生活の中で生きていますか。あるいは、仕事が忙しいので何にも考えるひまも無い生活ですか。あるいは、子供の教育やまだ支払ってないローンやお金の問題で悩んでいますか。恋愛問題で悩んでいますか。皆さんが今、一番関心を持って時間とお金を使うことは何ですか。それは仕事ですか。スポーツですか。勉強ですか。教育ですか。家族ですか。異性ですか。一番関心を持って時間とお金を使っていること。それが、今、皆さんが最も求めているものではないでしょうか。今日の御言葉は、たった一度の人生を間違えて進まないようにするための注意の標識のような御言葉です。もちろん、さっき話したことも大切です。しかし、それだけを求めることやそれを神様より大切にすることは大きな問題です。私たちは自分を捨て、自分の十字架を負い、イエス様について行くために、これからどうすれば良いでしょうか。日曜日の礼拝を守ったら大丈夫ですか。教会の奉仕や献金をしたら大丈夫ですか。洗礼を受けているなら大丈夫ですか。これらのものはとても大切なことです。しかし、このような狭い意味で言っているのではないです。私たちは永遠の命をもらった者としてふさわしい生き方が必要です。私たちの地上の生活は永遠の御国に入るために準備をしているのです。日曜日の礼拝と奉仕、交わりは天国に行く準備であり、この地上で到来している神様の国の宣言です。私たちの職場の働き、家庭の生活、学校の学びなどすべてのものが永遠の命につながっています。弟子たちは復活のイエス様と出会った後、彼らの生き方は完全に変わりました。彼らは自分が見たイエス様、聞いた御言葉を自分の言葉で伝える証人になりました。すなわち、「あかしびと」になったのです。彼らが歩んだその道は簡単で、優しい道ではなかったです。弟子達はイエス様を証した理由で多くの苦難と苦しみを受け、命の危険にも沢山会いました。イエス様をあかしすることは人々に「自分の罪から悔い改めなさい」と教えることであり、神様の国の到来を宣言することです。人々はそれを喜んで受けることより、むしろ迫害しました。それで、弟子たちは多くの苦難と苦しみを受け死にました。しかし、彼らはそれを恐れることなく喜んで、その道を最後まで走りました。教会の歴史の中で、多くの信仰の先輩達も同じでした。日本もキリシタン時代、多くの人々が 信仰のために命を捨てました。彼らも私たちと同じく命は一つであったのに、なぜでしょうか。それは「肉は滅びますが、永遠に滅びることない神様の国」に対する希望があったからです。この地上の営みが終わると報いを与えて下さる神様に対する信頼があったからです。それが、十字架の道です。それが、自分の十字架を負ってついて行くことです。どんな時でもイエス様を証する生き方です。今日はイエス様を信じることや証することで、命の危険に会うことは滅多にないです。しかし、今でも世界の多くの国の人々はイエス様を信じること、証することで命の危険に会うのです。また、多くの国では、正式な宣教師として入ることさえも許されていません。彼らをために祈るべきです。それと同時に、私たちも自分の生活、家族、友人、学校、職場など、自分が置かれている場所でイエス様の証人になるべきです。私たちはそのために神様から召されている者です。それが、私たちの使命であり、生きる目的であり、自分の十字架なのです。イエス様とともに生きるのはイエス様を証するということなのです。神様の国は私たちの中にあります。そして、また来ようとしているのです。小さな私たちの口と生活からの証を神様が覚えてくださり、それを御国の前進のためにもちいてくださるのです。神様がそれをもちいてくださることを御心で喜んで決めたのです。私たちの一人一人の証が神様の国の宣言であり、神様の国の完成の働きに用いられているのは驚くべきことです。皆さんはどうですか。自分の生活の中で自分の十字架を負っていますか。自分の生活の中でイエス様を証していますか。神様はこの世に神様の国が来たこと、また来ることを証する人を探しています。そして、私たち、一人一人にその使命を与えたのです。その理由は、私たちの周りには自分しか届かない人々がいるからです。私たちみたいな小さな者を用いて、また、小さな者を救うためです。皆さんは、自分が救われるために、どれくらい多くの人々の涙と祈りがあったか覚えていますか。その涙と祈りによって、私たちは救われているのです。イエス様の証人になるために、まず、祈りから初めましょう。自分しか届かない人々のために祈りましょう。それは、主人であり、子供であり、両親であり、親戚であり、友人であり、職場の仲間であり、色んな人々がいるでしょう。彼らのために涙を流しながら祈りましょう。今、祈っていますか。あきらめないで、絶え間ない祈りをつづけましょう。もし、私たちがその祈りを中断したら、この世には彼のために祈っている人が誰もいない状態になってしまいます。ですから、私たちの祈りはとっても大切です。祈りは必ず答えます。一つも地に落ちることはありません。祈りが弱くなっていますか。長い間、祈っても答えがないから疲れるようになりましたか。教会で他の兄弟姉妹と一緒に祈るようにしましょう。また、隣りの家の人のために、自分が住んでいる町のために祈りましょう。神様の国が来ますように。そして、口を開いて自分が出会ったイエス様を自分の言葉で証しましょう。私たちが地上の旅を終え、神様の国に行く時、何を持って行くことが出来るでしょうか。地上の物は何一つ持って行くことは出来ません。しかし、私たちは自分の証と自分の証をとおして救われた人の証は神様の国に持って行くことができます。それより素敵なことはないと思います。やがて来る復活の朝、全ての聖徒達は復活し、イエス様の前に立ちます。その時、イエス様は優しい声で、私たちにこう言ってくださるでしょう。「ご苦労様、よくやった、充実な僕よ」と。お祈りします。